冬の陽光が弱々しく降り注ぐ午後、三菱一号館美術館で、来年初夏のことを打合せ。
煉瓦造りと屋根飾りが目を引くクイーン・アン様式の建物は、本来は19世紀末にジョサイア・コンドルによって設計されたオフィス・ビルだった。1968年に一度取り壊されたものを、残された図面等に基づいて「忠実に」復元し、美術館に用途を変えて再生したという。
http://www.mimt.jp/about/ichigokan.html
ここでは、「保存建築」とも「歴史的建造物のリノベーション」とも異なる文脈で、建築の「歴史」や「記憶」を蘇生することが目指されている。(ヴィオレ・ド・デュク以来の「修復」とは、果たして同じ性質のものなのだろうか?)残されていた資料は、設計時の図面と、取り壊し直前に記録された内装写真。いつの時点を「オリジナル」と見なすかについても、議論があったそうだ。取り壊し直前まで店借りしていた会社の元社員たちは、竣工後に招かれてやって来たとき、「この部屋のここに自分の机があったんだ!」と感激していたという。ここで「再生」されている「空間の記憶」とは、いったいどのような種類のものなのだろうか。


夕方には、スイスのロシア映画研究者、フランソワ・アルベラ氏による講演会。エイゼンシュテインの「ガラスの家」プロジェクトにまつわる分析。壁はもちろん床も透明の「ガラスの家」では、一点透視図法や「視角のピラミッド」といった、整序的な視覚のシステムが崩壊し、中心性も階層性も突き崩される。そこに現れるのは「形態の溶解」――エイゼンシュテインがピラネージの「牢獄」に見出したもの――であり、これは映画を統御してきたパースペクティヴを破壊する。
「映画の外に出る」例として、話者が提示する二つのブックデザインの例も面白かった。一つはリシツキーの日本映画についての、もう一つはロトチェンコらのソ連映画に関する書物。読者がページを繰ることによって不動のイメージに動きが与えられ(分かりやすく言えばパラパラ漫画の要領である)、また本を捲っていくことで、(映画という)装置の仕掛けが露呈していく仕組になっている。これは「映画の仕組を観衆に向けて可視化することで、解体する」という点で、エイゼンシュテインによる「ガラスの家」の試みとも通底しているとアルベラは指摘する。
ピラネージと空間というテーマからも、「物体としての書物は、擬似的空間として経験しうるのではないか」という、自分の最近の関心からも、刺激的な話を聴くことができた。


翻訳の第二校に目を通す。初回校正時に、些細な誤り――長音記号がダッシュになっていたり、縦書きの図版キャプションの流れが逆だったり――をかなり見落としていたことに気付き、指の股に汗をかく。刊行予定は2月末だとか。表紙カバーや帯のデザインも上がってきている。翻訳というのは、自分自身の表現というよりは、他者の思考に寄り添う作業だが、書籍としての完成形が見えてくると、なにか自分の中のアモルファスなものが結晶化したのだという実感が湧いてくる。


[http://www.amazon.fr/dp/2020966379/:title=Laurent OlivierのLe sombre abîme du temps : mémoire et archéologie (Paris:Seuil, 2008)]を読書中。複数のサイトで、重要な書として言及されているのを見て、留学中に購入したままになっていたのを思い出したのだ。近いうちに何らかの媒体に書評を載せられたらいいと考えている。