最近の読了本、民俗学(日本)関係

庶民の発見 (講談社学術文庫)

庶民の発見 (講談社学術文庫)

このような規定は宮本常一の方法論に可能性を見出そうとする向きからは反発を受けるかもしれないが、書題からして「日本のアナール学派」という印象を受ける一冊。「常民」という概念も、petits gensという言葉のもつコノテーションに近いのではないかと思う。自身が農民の子として育った宮本は、そのような出自、自分自身の生育歴を学問的な存在理由としながら、あくまでも自分の脚で歩いた旅で、行った先々の人々――彼のいうところの常民――の話に耳を傾け、生活を観察し、その克明な描写を記録として残す。近代/近代化以前、都会/農村、権力者/常民という二項対立を前提として、後者の項目を礼賛し、懐かしみ、そこに(過剰ともいえる)期待や可能性を見出すかのような語り口は、今日の視点から見れば(従来的な「正史」とはまた逆方向の)バイアスが掛かったものなのだろう。ただ、この時代に女性や農村の名も無き人々たちの日常生活に視線を向けたことは、やはり画期的であり、それが彼の炯眼なのだろう。こちらも、農村の家々を回って口碑を聴き取り、その記録を積み重ねたもの。佐々木喜善岩手県の生まれ、柳田國男の『遠野物語』は、佐々木の語った民間伝承を基にしたものだという。彼の論調もまた、西洋的なもの、近代的なものと「失われた日本」とを対立させ、後者を惜しみ賞賛するという単純な図式に当てはまってしまう面もあるのだが、集団心性や集合的記憶、あるいは集合的無意識といったものに、明確な意識を持って着目しているところが目を引く。

[学問の]その二のものは、人間の心の底に潜んでいるもの、忘れられているもの、又古い人間の姿、祖先の精神生活の跡というような、現在一向回想もせず気もつかずにいることを、何人かに依って、ぽッかりと暗夜に灯火を点けるように言い示し、記憶から呼び起されて行くもの、即ち宗教とか、文学とか、芸術とか、あるいは又我々が、現に提唱しているところの民俗学とかいうような方面のことであります。
(上掲書、116ページ。)

先日読んだ柳田の『遠野物語・山の人生』もそうであるが、上記2冊にも収集した民間伝承が列記されていて、民話・伝説集としても楽しめる。同じような地盤をもつ同じような種類の口碑を取り集めているのに、柳田によって語り直される文章には何故か不思議と、泉鏡花を思わせる幻想性が漂っている。
ちなみにこれらの民俗学本は、こちらに来てから観た『千と千尋の神隠し』を切っ掛けになぜか「民俗学的なもの」「東北的な土着文化」に妙に嵌ってしまい、或る方に依頼して日本から送って頂いたもの。