・「写真の現在3 臨界をめぐる6つの試論」(国立近代美術館)

北野謙の、特定の集団に所属する人々の肖像写真を何十枚も重ねて焼いたポートレイト集が印象に残った。眼を中心に重ねているのか、顔はほとんどぶれていないが、体の線は激しく揺れ動いていて、グアッシュのラフなデッサンのようになっている。人物の眼が、微妙にぶれて暗く沈んで、幽霊のような妙に人工的な顔立ちに。(連想したのが、この絵この絵。)「漁師」や「高校球児」、「PIERROTのファンの少女」などを重ね焼いた作品では、それぞれの「類型」に対する世間一般のイメージ通りの顔貌が表れ出ているのが不思議。そこにあるのは、「誰でもない」顔のはずなのに、多少の不自然さはあるにせよ、観る者には「誰かは知らないけれど、何処かにいるはずの特定の誰かの顔」として立ち現れてくる。

・「揺らぐ近代:日本画と洋画のはざまに」(国立近代美術館)

明治15(1882)年の狩野芳崖『地中海真景図』や、明治37(1904)年の山元春挙『ロッキー山の雪』、同年の竹内栖鳳ヴェニスの月』は、外国の風景を主題としつつも、断崖絶壁や樹木、月などの表現は伝統を引き継ぐものであり、結果として日本的な(あるいは、日本とも異国ともつかない珍妙な)光景が出現している。一方で、明治43(1910)年の近藤浩一路『京橋』になると、むしろ日本の光景が異国の街路と見紛う体裁で描かれる。

村上華岳『青柿』(1923)に描かれた甲虫の羽(ぶぶぶぶぶ)。素早い運動を表すためか、細かくブレていて、ジャコモ・バッラの散歩する犬の足のような表現になっている。果物や植物の傍らに昆虫を描き入れる手法は、ことに西洋ではよく見かけるが、ほとんどはどこかに止まっているか、空中で(ありえないことだが)静止しているかで、羽の運動を描いたものは相当珍しいのではないかと思う。この点以外はまあごく一般的な、歳時記的に季節の実りを描いた日本画なので、余計に「ぶぶぶぶぶ」が際立つ。

岸田劉生『壺の上に林檎が載って在る』(1916)タイトル中の「在る」のインパクトが凄い。画中の林檎の現実的な存在感。

土田麦僊『鮭之図』(1924)微妙に色調の異なる白で描かれた卓布と壺と皿、そして鮭の切り身3切れ。魚としての完全な姿でもなく、高橋由一の作品のように、一部分の皮を剥がれた漁の獲物としてでもなく、唐突に生の切り身。由一作『鮭』の生々しく重厚なリアリズムとは違って、形式的で静謐な画で、だからこそ余計に「切り身」であることが脈絡無く感じられる。

和田英作『野遊び』(1925)背景の千花模様や衣裳の紋様、真横を向いた女性のスタティックな横顔などが、フィレンツェルネサンス(例えばポライウォーロ)を思わせる。千花模様と言っても、国際ゴシックのそれほど形式化されてはおらず、個々の花の種別(菫、カタバミ、土筆、ナズナなど)がはっきりと分かるように描かれている。薄い裳裾を翻して歩く、天平のニンファが一人。

小林永濯『道真天拝山祈祷の図』(1974−86頃)解説には「劇画を思わせる」とある通り、制作年代が信じられないほどに畸想的。こんな瞬間をこんな構図で描くことを思いついた着想源は何なのか、気になって仕方がない。当初、この展覧会は2004年の「再考:近代日本の絵画」展の焼き直しのように思えて、見送ろうかと思っていたのだけれど、ポスターに使われているこの絵の迫力に気圧されて、観ることに決めた、そんな一枚。

明治以降に生み出された「洋画」と「日本画」というジャンル分けの自明性を疑い、その両者の共通性や融合に焦点を当てた展覧会。着眼点はともかく、解説パネルの文章の、絵画内の諸事象をすべて作者の明示的な意図に還元してしまっている点が気になった。和洋混淆性を、日本的なもの(伝統的なもの)と西洋的なもの(近代的なもの)の両者を止揚した、理想的な解決策として称揚するかのような姿勢にも、疑問が残る。

西洋化を目指しつつも、染み付いた日本的な「目」や「手」を脱却できず、それが例えば西洋風景の中の山の端や、写生的に描いた動物の前脚といった細部に、伝統的な定型的表現として表れ出てしまっていたり、あるいは、印象派キュビズムへの傾倒や西欧留学の経験が、日本の風物を切り取る眼差しまでも規定してしまったり、「和洋の融合」は、むしろそういう期せざるものの結果なのではないだろうか。

狩野芳崖において実現されたという、フェノロサの「日本画の西洋化・近代化」のプログラムが、むしろ(今日的には)キッチュでビザールな作品を生み出してしまっているように見えるところも、なんだか面白い。

ちなみに、画像検索で見つけたページ()。甲斐庄楠音の作品をテーマ別に集めたものらしいのだが、「美人画」のはずなのになんとも不気味で恐ろしい。ココシュカやモディリアーニも霞むほどの「お化けの絵」だ。昔読んだ島田雅彦新聞小説『忘れられた帝国』に、主人公だかその友人だかが、ある画家の絵に衝撃を受けて「僕もお化けの絵を描くよ」と宣言する場面があったことを、突然思い出した。その「お化けの絵」の画家が誰だったのかは、覚えていない。