ロビンソン・クルーソー

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

もし誰かがある個人のこの世界における冒険の物語が公けにするに値するものであり、公けにされたさい好評を博するに値するものであるとすれば、この物語こそそうだと編者は考える。
(7ページ、デフォーによる原著序)

いくらかこういう心の動揺も静まり、家の道具や住居の問題もかたづいたので、テーブルと椅子おのおの一つを作り、自分の身のまわりをできるだけ整頓し、日記をつけはじめた。日記の写しを次にお目にかけようと思う。断っておかなければならないことは、すでにのべたことがくり返し記されているかもしれないことである。
(97ページ)

「読者」への公開を意図した語りとその宣言。主人公のクルーソー自身が公開性を意識しているが、さらにその原稿を著者であるデフォーが発見し、公刊するという体裁を採っている。

私は全人類から絶縁されている孤独者であり、人間社会から追放された者である。
(93ページ上段、クルーソーが作成した、無人島への漂着の「悪い点と善い点」のバランスシートより、「悪い点」の一つ)

私は杉の木を一本切りたおした。ソロモンがエルサレムの神殿造営のときに切りたおしたといわれる木もはたしてこれに匹敵したかどうか、疑わしくなるほどの大木であった。
(173ページ、初めてボートを手作りした際の描写。)

「最初の建築」としてのソロモン神殿というイメージは、デフォーにおいてはまだ健在である。神が人類に与えた「ソロモン神殿」と対照をなすのが、ヴィトルヴィウス/マルク・アントワーヌ・ロージェによる「原始の小屋」の系譜である。もっとも、ここで持ち出されている「ソロモン神殿」は、「原始の小屋」とほぼ変わらない比喩ー―自然状態における始源の建築行為ー―として用いられているだろう。

自分があきれるほど今まで見てきたこの大地と海、いったいこれはなんなのであろうか。どういうふうにつくられたのであろうか。いったい自分はなんなのであろうか。自分ばかりではない。野生のものであれ、飼育されたものであれ、人間であれ動物であれ、生きとし生けるものはみななんなのであろうか。またどこからきたのであろうか。いうまでもなく、われわれはすべて、ある秘められた「力」によって、大地と海、大気と青空を作った「力」によってつくられている。だがその「力」はいったいなにものなのだろうか。

自己の存在に対する問い。ゴーガンが『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』と題した作品を描いたのは19世紀末のこと、デフォー(クルーソー)は、「我々の行く末」までは射程に含めていないものの、その180年前に自己の存在と来歴を問うていることになる。