矢代幸雄とボッティチェッリ

現在、学生有志で「受容としての日本思想研究会」というものをやっていて、そこでの発表の関係で矢代幸雄の著したテクストについて調べている。
矢代は、日本における西洋美術史(とりわけイタリア・ルネサンス絵画)研究の第一人者であり、学術的なスタイルはもとより、社会的なプレゼンスにおいても、現在の「西洋美術史研究者」の祖型のような人物である。若き日には、松方コレクション(現在の国立西洋美術館の母体)形成、とくに印象派、ポスト印象派の購入に一役買っており、また第二次大戦後に流布した「アメリカが京都・奈良の空爆を控えたのは文化財保護のため」という「ウォーナー伝説」の発生源でもある。
矢代に関する資料は、一括して神奈川県立近代美術館葉山分館に所蔵されている。
彼の言説は、表面的な妥当さとは裏腹に、その時代が「文化」や「芸術」という言葉の裏に宿していた微細な政治性を如実に反映していて、そこがけっこう面白い。(決定的に面白い人物なのかと言われると、疑問符が付くけれど。)
このテクスト分析の過程でふと気付いたこと。彼がボッティチェッリ研究で参照しているのは専らフィレンツェアメリカ人バーナード・ベレンソンであって、例えばヴァールブルクのボッティチェッリ研究などはノーマークのようだ。とてもトリビアルなことだが。(しかし矢代は大規模な「美術図書館」を構想していたようで、この辺りはある意味ヴァールブルク的かもしれない。)

井上忠太についても、「奇想の建築家」として面白がる向きが多いけれど、彼が建築史記述の中で用いる「精神素」(Kunstwollen?)と「物質素」(ある種のフォーマリズム?)の概念だとか、様式史観だとか、空間軸に沿ったイメージの発展史観だとかを、先行する西欧の言説との関係で突き詰めていくと面白いんじゃないかと思う。岡倉天心の美術史記述は、あれは何?ヴェルフリン?

ところで、矢代は「芸術」と「観光」の連結可能性にも敏感だったようだ。下記のような書籍が最近出版されているけれど、矢代に代表されるようなある種の価値観の、集大成かもしれない。

芸術都市の創造―京都とフィレンツェの対話 (エンゼル叢書)

芸術都市の創造―京都とフィレンツェの対話 (エンゼル叢書)

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しかも写真の使い方も,これはよく引かれる例だけれども,矢代幸雄さんの『Sandro Botticelli and Florentine Renaissance』(1925)の中のボッティチェルリの写真が「部分」を使い始めた最初です.これはたいへんショッキングだった.つまり,従来はヨーロッパの本で写真と言えば,要するに全図をたくさん載せていた.矢代さんは,思い切って「部分」を使ったわけです.
InterCommunication No.15 1996より高階秀爾氏の発言)

佐藤香里「GHQの美術行政--CIE美術記念物課による「美術の民主化」と矢代幸雄 」(<特集>「近代」と「美術」の外側) p.80-95
久保いくこ「矢代幸雄アメリカ巡回日本古美術展覧会(一九五三年)」 (<特集>「近代」と「美術」の外側) p.96-114

日本の古都はなぜ空襲を免れたか (朝日文庫)

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イタリア、旅する心―大正教養世代がみた都市と美術

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