「人間の脳髄は、天然の巨大なパランプセストでないとしたら、一体何であろうか。私の脳髄は一つのパランプセストだし、読者諸君のもまたそうである。観念や映像や感情の限りない層が、諸君の脳髄の上に、次々に、光のようにそっとつもった。そして、その一つ一つの層が、前の層を埋めたようにみえた。しかし実際には、どれ一つとして失われてはいない。」[中略]だから忘却は、一時のことに過ぎない。こういう厳かな状況の中で、死に際してもおそらくそうであろうし、阿片によってかもし出される激しい興奮の場合も一般にそうであるが、巨大で複雑な記憶のパランプセストの一切が、一挙にくり拡げられる。そして、われわれが忘却と呼ぶところのものの中に神秘的に焚きこめられた、死せる感情の積層を一つ残らず見せてくれるのだ。
シャルル・ボードレール「人工の天国」安東次男訳『ボードレール全集』第2巻、福永武彦編、人文書院、1963年、187〓188ページ。)