時計と時間の共有・個別化・占有

Modernityにおける、時計の形態の変化と時間の個別化というテーマについて。共同体の中心である教会が支配していた時間が、家庭ごとの大時計になり、懐中時計の普及によって個人化していく、その途中で鉄道や工場が管理する「時間割」が登場するというプロセスが描けるのではないか、というのが現時点での仮説的見取り図。


波打ち際に生きる

波打ち際に生きる

松浦寿輝氏の最終講義「Murdering the Time」は、アリスのウサギと時計を枕にルイス・キャロルの「三つの時計」を列挙、その後『80日間世界一周』やプルーストボードレールダーウィン萩原朔太郎らの時間イメージへと展開していくものだった。この最終講義が収録されているのが、上掲の『波打ち際に生きる』である。


時計の形態(=時間の所有形態)がまさしく家制度と「個人」との間の軋轢を象徴しているのが、寺山修司監督の映画『田園に死す』のワンシーンである。

寺山修司全シナリオ〈1〉

寺山修司全シナリオ〈1〉

少年「へえ、でも、皆が時計持ってたら、喧嘩になるでしょう」
空気女「どうして?」
少年「だって、だれのを信用すればいいかわからないもの」
(ト書き)空気女の懐中時計の大写し。空気女、笑う。
少年「一人で一つずつ時計を持っている。それで皆で一緒に旅行している……」


母親「時間はね、こうやって、大きい時計に入れて家の柱にかけとくのが一番いいんだよ。それを腕時計なんかに入れて外に持ち出そうなんて、とんでもない考えだよ」
少年「……」
母親「考えてもごらんよ。あたしたちは、母子たった二人しかいないんだよ。その二人が、べつべつの時計を持つようになったら、どうなると思っているの?」
少年「でも、あの時計、壊れているじゃないか」
母親「いいえ、針はちゃんと合ってます。あれが、わが家の時計なんです」
(映画『田園に死す』シナリオ、上掲書248-249ページ)