「国際シンポジウム「AIと人文科学:国境を越えて・分野を越えて」第1日目を聴く。こちらで共通テーマを見つけるとすれば、「デジタルツールによる定量分析と世界美術史」といったところだろうか。
コーパスの量的な分析によって、例えば「第二次大戦後のアメリカ美術の覇権」といった美術史の定説が覆ること、しかしコーパス研究のようなコンピュータ分析は言語には向くが、イメージに適用するのは難しく、またそこには、人々の記憶に残り、書籍や展覧会を作り上げるのに必要な「物語」を補う必要があること(B. Joyeux-Prunel)という冒頭の発表は示唆的。これは、現在の「デジタル人文学」と「世界〇〇史(グローバル・〇〇・ヒストリー)」の潮流と、オーソドックスな研究の方法論を繋ぐものであろう。
その後に続いたフランス-日本-植民地東アジアの三角から近代洋画の展開を、「オリエンタリズム」という西洋前提の語からは零れ落ちる文化的背景も掬い上げつつ辿る発表(三浦篤)、第二次大戦後の政治状況から、複雑な所有権関係を辿った福島繁太郎コレクションのルオー3作品(福島は一度も手にしていない)の状況を明らかにする発表(L. Saint-Raymond)、ゾラのマネ批評におけるしみ、真実、生命の3語を、コーパス分析と手動の文献調査を併用し明らかにする発表(寺田寅彦)も、それぞれ新たな知識と思考の方法論をもたらしてくれるものだった。
専任教員になって丸6年、勤務校に特化した教育と学務に忙殺される中で、研究においてどんどん取り残されていくという焦りがあるから、こういう機会は貴重である。所属学科の固有性(日本文学文化学科の中の文化芸術専攻)を活かすべく、「芸術における西洋と近代日本の邂逅」というテーマを、授業でも扱い、また卒業研究でも勧めているので、その点でもたくさん勉強になった。

シンポジウム内で紹介されたデータベース
・イメージの国際的な流通をデジタル技術で量的・統計学的に分析するためのデータベース「Artl@s」:https://artlas.huma-num.fr/en/
・Visual Contagion:https://www.imago.ens.fr/portfolio/

古典的な「作家主義」の発想になってしまうが、三浦氏の発表を聴いて関心を惹かれたのは、やはり藤島武二の特異性である。女性の横顔の、イタリア・ルネサンスと中国とどことも知れない東洋風の混淆、朝鮮にアルジェリアとイタリアを、日本にフランスを見出す発想、そしてひたすら孔子廟の「壁」を描く(名所的な建築物として孔子廟を描くのではない)ところなど。

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『建築ジャーナル』2021年2月号「特集:新・廃墟論」の座談会に参加しております。廃墟探検家の栗原亨氏、旧共産圏モニュメント写真でも知られる星野藍氏、若手建築家の三井嶺氏という、豪華かつなかなか無い顔ぶれとご一緒させていただきました。刺激的で楽しい収録でした。各人の廃墟体験や廃墟観が織りなす2020年代の廃墟論です。ぜひご高覧ください。

座談会のなかでも語っていますが、2000年代には熱心に廃墟系サイトを見て回っていました。栗原氏のサイト「廃墟Explorer」もかなり閲覧していたんじゃないかな。最初の仕事を辞めて、無所属廃人〜大学院生の頃、不安だけど自由な時代だった。その心性もまた、「廃墟」的なあり方と通底していたのかもしれません。

建築ジャーナル 特集 新・廃墟論 2021年2月号

建築ジャーナル 特集 新・廃墟論 2021年2月号

  • 発売日: 2021/02/01
  • メディア: 雑誌
 

 

最近の活動です。勤務先の学科有志で立ち上げた教育振興プログラム「文学と芸術を通じた地域社会参画型表現教育(SEREAL)」のキックオフ・ミーティングの記事です。
学生たちのささやかな「表現」を、大学の教室の外へと繋げていこうという試みで、プログラム内では様々な小企画が並走しているのですが、まずは地域図書館との連携企画から具体的な稼働が始まりました。

書籍紹介

 

香月孝史『「アイドル」の読み方:混乱する「語り」を問う』青弓社、2014年。
出版社の紹介ページ(目次あり):https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787233721/

卒論・卒制ゼミでは「アイドル」をテーマとする学生が毎年一人は必ずいるのだが、論点やアプローチを考えるうちに、混乱してしまいがち。そういうときに思考を整理してくれそうな一冊だった。

刊行年からも察しがつくが、この本で取り上げられているのは2010年代前半、AKB48PerfumeももいろクローバーZ、BABYMETAL、でんぱ組までの女性アイドルである。エピソードとしては、峯岸みなみの「交際が発覚して坊主にした事件」まで。逆にいえば、日本で女性アイドルが一大ブームとなり、モード系のファッション誌や西洋美学専門の大学教員までもがPerfumeももクロを取り上げるようになった時期、アイドル論が百家争鳴?となった時期でもある。

アイドル=低俗、子供・若者向き、パフォーマンスのレベルが低いというステレオタイプの存続と、ある種のアイドルを称揚する際に「アイドルらしからぬレベルの高さ」という価値が持ち込まれる状況(これは近年の「K-POP上げ、日本のアイドル下げ」の言説にも継承されている)、アイドルに対するファンの感情は、本当に「疑似恋愛」と言いうるものなのか(それでは異性愛者の同性ファンはどうなのか、女性アイドルの女性ファンであれば「男性的視線(male gaze)の内面化」という単純な話に留まるのか)、なぜアイドルは「恋愛禁止」なのか、それはどのような性質の「禁止」であり、誰が誰に命令しているのか…… アイドル(特に女性アイドル)とそのファン文化について個人的に抱いていた疑問が、一通り「言語化」されているという感じを受けた。

また、アイドルのSNS発信(当時はTwitterGoogle+Ustream)についても触れられている。そこでは「アイドルのパーソナリティ」や「素顔」までもが「コンテンツ」(商品、消費対象)となり、ファンとの双方向コミュニケーションが一般化し、それがアイドルへの負担となる一方で、アイドルとファンが互いの人格を相互承認する場ともなっている、ということが分析される。
ここ1年はフィジカルなライヴや握手会などの開催が制限されたこともあり、オフステージや「普段の姿」を見せるものも含め、アイドルのオンラインコンテンツが充実した時期だったのではないか(ついにジャニーズも、一部のグループではインターネット発信が解禁になったとか)。そういう点でも、最新の状況までは網羅されていないながら、「考えるための補助線」を提供してくれる一冊だと思う。 

表象文化論学会オンライン研究フォーラム「日本映画における衣裳」パネル、コメンテイターとして拝聴していても、とても面白かったので、寄せたコメントを備忘を兼ねてここに公開しておきます。

 【全体的に】

少なくとも日本で映画研究というと、作品分析や(監督=映画の全体を統括する作者とみなした上での)作家研究が、未だにほとんどだと思います。他方で服飾史やファッション論でも、映画の衣装については、特徴的な作品や女優、著名デザイナーについて散発的・個別的に言及されることはあるにせよ、映画制作に必須の一要素として包括的に論じたものは、本邦ではまだまだ少ないように思います。

このパネルは、「映画産業の歴史」という観点と、個々の衣装担当者(甲斐庄楠音森英恵)へのモノグラフィー的なフォーカス、さらには彼らの制作の文脈(画壇、演劇界の動向など)を架橋する形で、ややもすれば紋切り型の印象が流布している二人、楠音と森の、画家やファッション・デザイナーとしてのキャリアの中で「空白」となっている期間における創造のあり方を、地道で実証的な研究により明らかにしてくれるものでした。同時に、映画制作というシステム、あるいは一つの映画作品が、いかにそれぞれのスタッフの分担とチームワークで成立しているのかを、浮き彫りにしてくれるものでもありました。また、衣装という「細部(ディテール)」が映画の物語内で果たしている機能についても、豊かな洞察と示唆を与えてくれるご発表でした。

【太田さんへ(京都画壇と映画衣装)】

 太田さんのご発表は京都画壇の動向や共有されていた文脈と映画産業界という、二つの(一見すると別々の)職能世界を架橋する研究であり、同時に美術史と映画史という別個のディシプリンを繋ぐものでもありました。つまり、画家であり、衣装・時代考証担当者としての楠音における、「横の繋がり」を明らかにしてくれるものです。(琳派など江戸的なモティーフだが、安土桃山時代が舞台と思われる『雨月物語』に用いられている?)

 『雨月物語』という一つの映画作品における衣装の「蝶」の象徴性にも言及、これもまさに中国の故事から日本美術史、西洋美術史や文学・演劇の日本における受容、一種の比較神話学的な視点(魂・死)など、領域横断性の見事に発揮された、重要な指摘です。異界の女「若狭」の薄衣→空間を仕切る(鑑賞者と人物たちの間にヴェールとして掛かる)几帳の薄衣(蝶が透けて浮かび上がる)→源十郎の夜着代わりの小袖へと、「蝶」のモティーフが移転しているのも興味深いです。異界、幽霊の世界が、若狭から室内へ、そして源十郎へとその支配の領域を拡げていくようにも解釈できるのではないかと思いました。

 楠音のスクラップブックの実物写真も興味深く拝見しました。つまり、創造や思考をうながすためのスクラップというアイディアです(本来の文脈から特定のモティーフを切り取り引き剥がし、別の支持体の上に他のモティーフと並置することで、新たな配置がもたらされる)。

 ご発表は、基本的には女性役の衣装に注目するものでした。これはつまり、物語や人物造形上の要請から、特権的に女性役の衣装が重要であり、制作陣もとりわけ女性の衣装に力を注いでいた(裏を返せば男性役の衣装は比較的力を抜いている)ということなのでしょうか? それとも、男性役の衣装も同様に重要な役割を担っており、今後の研究課題である、ということなのでしょうか? また、女性の衣装と男性の衣装では、映画内での機能が異なるのでしょうか?(最後に源十郎の衣装の写真も出していましたが)

【小川さんへ】

  太田さんと同じ甲斐庄楠音を取り上げつつ、画業と映画の衣装・風俗考証担当、さらにはプライヴェートでの「演者(女形)」としての表現に分断されがちな彼の生涯を、一つの流れとして整理したどり直す研究でした。それぞれの表現をつなぐいくつかのモティーフ(人物の身振りや横櫛という小道具)に着目することで、「画業を辞めて映画界に転身」などというものではなく、それが連続するもの、共通の関心や表現欲に貫かれたものであることを、実証研究と作品解釈により明らかにしてくれました。特に、絵画における細部(ディテール)や「身振り」が、映画にもまた「女性を演ずる/女性になる楠音」にも共通する、あるいは伝播してゆくという点は、イメージ分析の観点からも興味を唆られます(ベタにいうと、ヴァールブルクのムネモシュネを連想させる)。また、映画制作に関わることが、楠音にとっては「絵を描くこと(視覚的、身体的な創造)」、さらには「自ら(女性を)演ずること」の延長ないし転移であったことも分かりました(絵に描いた女を実現する、女をイメージにする)。

 PowerPointでご提示いただいたスクラップブックの紙面を見ると、東西美術や表現のメディア、ジャンルを越境して、人物の身振りや複数人物により創り出される構図の共通性に、楠音の関心があったように見受けられます。これは、小川さんが指摘された「白糸」の身振り、「道行」の構図や「うずくまる女」というポーズが、楠音の絵画、映画、女形としての表現を貫くモティーフであることや、彦根屏風など過去のイメージの歴史から映画用スケッチへと「引用」を行なっていることとも、共通するものであるように思えました。また、楠音にとっては、「演ずる、成り済ます《わたし》の身体」が、実は最も重要であるようにも思えました(小川さんのいう「自作自演」)。小川さんのお考えはいかがでしょうか?

【辰巳さんへ】

 太田さん、小川さんの取り上げた事例は、時代考証を必要とする和装でしたが、辰巳さんは映画制作と同時代の洋装を取り上げられました。森英恵という、著名であるにもかかわらず日本のファッション論では等閑視されがちなデザイナー(少なくとも川久保玲三宅一生といった面々に比べれば)の、「皆が知っている森英恵」になる以前の活動を、丹念な調査で解明したもので、目を開かされました。

 同時に、とりわけ小津映画において「衣装(女性の衣装)」、さらには「着替えること(ある衣装から別の衣装への転換)」というテーマ系が、物語の展開において担っている重要な機能を、明晰に分析してくれるものでした。小津映画を見ると、「肝心の女性主人公の衣装がなぜか地味」「『秋日和』の岡田茉莉子が友人の結婚式で着るドレスは、全体の中で浮きすぎ」などと思っていたのですが、その謎が解けました。小津の映画は、「旧世代と新世代」が対照的に描かれ、例えば『秋刀魚の味』ではそれが生活の場所(日本家屋と団地、1階と2階)にも如実に現れていると思いますが、本日のご発表をお聞きして、「時間の停滞と転覆・急展開」という図式もあり、それが衣装で体現されているということが分かりました。

 辰巳さんにお伺いしたいのは、太田さんに対するのと共通の質問です。小津映画において、男性陣の衣装が果たす機能は、蓮實がすでに指摘しているような「モーニングに着替える」ことくらいなのでしょうか? つまり、女性役の衣装ほどの機能や意味を担わされていないのでしょうか?

12/19(土)は「現代社会における<毒>の重要性 2020年度シンポジウム」にて、「ジャンク化する身体:1980 年代の表現を中心に」というテーマで発表いたします。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/20201219_symposium/
私の発表では、東京グランギニョル、三上晴子、塚本晋也『鉄男』などを取り上げる予定です。「外部からの侵襲」と「内なる異物」、あるいはそういう分かりやすい二項対立を崩してしまうような、しかし完全な融合・同一化ではない何か、がキーワードのような気がしています。ここ5年くらい考えている、ジャンル化された廃墟(ruin)ではない「廃墟的なもの」の系譜でもあります。(1980年代の日本のサブカルチャーにおける廃墟については、2020年3月の紀要論文でメモ書き的に論じました:http://doi.org/10.18909/00001938

 

翌日曜日(12/20)は、表象文化論学会オンライン研究フォーラム(https://www.repre.org/conventions/22020/)にて、パネル「日本映画における衣裳」のコメンテイターを務めます。

講義用メモ:ジョーカーにみる権力、暴力、「悪」の描き方:トッド・フィリップス監督『ジョーカー』2019年

バットマンとジョーカー:元々は1940年代から連載開始されたアメリカン・コミックスバットマン』で悪役(バットマンの敵役)として登場。その後、媒体や年代ごとにキャラクター設定は様々に変化。ジョーカーは「サイコパス(冷酷非情な純粋悪)」として造形されることも多い(アメリカ映画における「悪」の一つの類型)

Cf.アメコミ『バットマン』のストーリー自体が、幼少期のトラウマをめぐる(ベタにフロイト的な)復讐と倒錯した自己克服の物語(コウモリにトラウマがあり、両親の殺害とも結びつく記憶のモティーフだからこそ、コウモリの格好をする)。バットマンとジョーカーの鏡像関係も示唆?

 ・『ジョーカー』2019年:『バットマン』の前日譚(バットマンとなるブルース・ウェインの少年時代、悪役ジョーカー誕生の由来を描く)・アンダークラスの社会的弱者(精神疾患を患う「インセル」男性、定職・定収入もなく病気の母親と二人暮らし)としてアーサー/ジョーカーを描く

・悪は「強大な敵」として描かれない、「悪の崇高化」もなされていない(ジョーカー以前のアーサーは、今日のインターネットジャーゴンでいう「弱者男性」である)

・しばしば指摘されるように、製作当時のアメリカ合衆国や先進国の情勢(格差社会と社会階層の分断、アンダークラスの怒りなど)も反映された作品(ただし当時の米国=トランプ政権下では、アンダークラス白人はむしろポピュリズム政治に迎合的?)

・作中では、巨悪や強大な権力そのものに対する抵抗というよりも、「小金持ちに対する反感」(地下鉄内で女性をからかいジョーカーに射殺される)が民衆暴動のきっかけとなっている

・本作での「悪」(社会構造が生み出す相対的な「悪」?)は、新自由主義社会の勝者である富裕層・権力者層(ウェイン家)や小金持ちの「陽キャ」(地下鉄で女性をからかう若者たち)の側として描かれ、本来「悪役(ヴィラン)」のジョーカーはむしろ下層市民の共闘者、もしくは同情すべき善良な弱者として描かれている

・ジョーカーはアンチヒーロー、ダークヒーローの系譜ではあるが、 「人間味のある弱者」や「周縁化された存在」として描かれている

・文学的・芸術的な「狂気」のイメージの系譜(崇高で創造的なもの)ではなく、現実的で卑小な「精神疾患」として、ジョーカーとその母の狂気をとらえている(崇高な狂気から、病理としての精神疾患へ?)

・社会から見捨てられた母親と息子の対関係、「強い父親」としてのトーマス・ウェイン(彼が実父というのは、実はアーサーの母親の妄想)に拒絶される

・小金持ちに対するアンダークラスの怒りの爆発。デモ隊の仮面は「特権的なヴィラン」であるはずのジョーカーと同一化してしまう(これによりジョーカー/アーサーは刑事の追跡を逃れる)

→ジョーカーのクラウン・メイクは、「異形性の強調」から「市民との連帯・団結の象徴」へ?

・仮面/メイキャップ:ジョーカーの風貌にまつわる由来は、シリーズや作品によって異なる。2019年の『ジョーカー』では、コメディアンに憧れるアーサーの職業的な仮面であると同時に、権力による抑圧に怒りを爆発させる市民たちとの連帯の象徴ともなっている(「#アーサーは私だ」的なもの)

・ジョーカー/アーサーとメイキャップ/素顔の対応、自らが演ずる「ジョーカー」になるプロセス

・アーサーは結局は救済されず(「仲間たち」が出来るわけではない)、孤独に狂っていくことが示唆されるエンディング→「後日譚」としての「バットマンのジョーカー」へ