J.-N.-L. デュランについての紀要論文のために、昨年8月にTweetしたメモを再掲。

 

テラン・ヴァーグ概念で有名なイグナシ・デ・ソラ=モラレス、J.N.L. デュランについての論文も書いていた☞https://www.jstor.org/stable/1567112 

理性主義(ポリテク)と折衷主義(ボザール)は相反するものではなく、19世紀初頭の西欧では、理論上も実践においても、同一の歴史的プロセスの表裏であるとの主張。

 

 

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渋谷区立松濤美術館の「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」展へ。普段複製で見慣れた廃墟画の実物の筆跡や細部をじっくり検分できたのと、日本の洋画家壇で1930年代に専ら古代ローマ風の廃墟ブームがあったと知れたのが良かった。明治期の古代ギリシア・ローマ熱ともおそらく異なるであろう、西洋古典古代への眼差し。

 

ちなみにこの松濤美術館、設計を手掛けたのは白井晟一だそう。

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東京都写真美術館の「建築×写真 ここのみに在る光」展へ。収蔵品から構成した企画展とのことだが、写真が捉えた建築、写真のみが捉えうる建築について思考を促す、佳作の展示であった。

冒頭に展示されているダゲレオタイプが鏡面のように反射することに驚く。正対したのでは何が写っているのか分からず、下から角度をつけて覗き込むとはっきり見える。

アジェをはじめ、人物や動くものがほとんど写っていない写真が多く(シャッタースピードが遅かった時代の写真は、当然この種の運動は捨象されてしまうのだが)、あくまでも仮初めの無人の静謐さという印象が、技術的な必然によって、あるいは撮影者によるフレーミングによって出現していることに改めて気づく。

ルーヴル宮の壁面をペディメントと同じ高さから写したバルデュスの写真には、私自身何度か訪れたことがあるはずの有名な美術館の細部の装飾が、このようになっていたのかと驚かされた。よく指摘されてきたことであろうが、とりわけ建築のような巨大さを特徴とする対象については、人間の身体と眼では得ることのできない視覚が、写真によってもたらされていることを思い知らされる。

写真は広大な建築物を遠距離から、あるいは高所から一望の元に捉えることを可能にするが(展覧会出品作ではとりわけ宮本隆司による九龍城砦)、他方ではフレーミングやクロースアップによって、ときに直ちには同定できないような細部へと視線を注がせる効果もあるのだということを、渡辺義雄(伊勢神宮)や石元泰博桂離宮)、瀧本幹也ル・コルビュジエ設計の建築)の写真から実感した。

 

売店で展覧会カタログ、『エクリヲ』第9号(特集1:写真のメタモルフォーゼ)、柳宗悦『蒐集物語』、それからマン・レイがモンパルナスのキキを写した《アングルのヴァイオリン》のマグネットを購う。ちょうど自分が大学院時代に触れた写真論の言説では、もはや現在の写真(的な何か)をめぐる状況を掬い取れないと思っていたときだったので、デジタル・サイネージやInstagramiPhoneのLive Photos機能、SNS、自撮りと加工から写真的なものの動画化までを視野に収め、「現在の写真」を思考する言語を紡ぎ出そうとしている『エクリヲ』は示唆になった。

柳宗悦は、ふと目に止まって衝動買い。若い頃にはインテリ上流階級が無名の民衆による「下手物」に逆説的な美を見出す、という「民藝」の図式に批判的だったのだが、もういい歳だしここらで一度虚心に読んでみようかと。それから、美術品・名品であれささやかなオブジェや文房具であれ、誰かが自分の気に入りの物を語っている文章が好きということもあり。瞬時に全体を予備知識を介入させずに見る「直観」の強調や、雑器・民器という言葉遣い、そして至上の茶器が見出されたときは農家で鶏の餌入れになっていた挿話――素晴らしい器は無名の工匠により作られ、無名の民衆の日常に用いられているが、しかしその民衆は器の価値を自覚しておらず、外部から来た「目利き」による再発見が必要なのである――など、「目利きの言説」の一類型としても色々と面白いのだが、それ以上に紹介されている曾我屏風の空間構成に度肝を抜かれた。

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2019年元日 新年のご挨拶

昨年は勤務先の大学でも、所属している表象文化論学会でも責任のある仕事や役割を任され、その間隙を縫ってレジスタンス活動のように研究をする日々だった。しかし、新しい場所での面白い試みに呼んでいただく機会も増え、知的な刺激のシャワーを浴びて、ともすれば「マッチ箱に入れられた蚤」になりがちな自分の思考に喝を入れることもできた。
今年は、自分の思考に形を与える作業(具体的には単著刊行に向けた準備)を、着実に進めていこうと思う。

2018年の業績はこちら。
【分担執筆】
・渋谷哲也編『ストローブ=ユイレ:シネマの絶対に向けて森話社、2018年1月。
【単著論文(有審査)】
・「モダニズム都市と夜の幻想:1920−30年代のイメージとテクストから」、『和洋女子大学紀要』第58号、37-48ページ、2018年3月。
【書評・解説など】
・「シークエンシャルな建築経験と(しての)テクスト:鈴木了二『ユートピアへのシークエンス』ほか」、『10+1 web site(特集:ブック・レビュー2018)』、2018年1月。
・「美術と建築と文学とを越境しながら軽やかに思考を展開:武末祐子『グロテスク・美のイメージ』書評」、『週刊読書人』第3238号、2018年5月 。
・「解説 フィクションにおけるテクノロジーの表象とジェンダー」、『知能と情報』日本知能情報ファジィ学会、第30巻第6号、308-316ページ、2018年12月。
【口頭発表】
・「世界解釈、世界構築としての建築の図的表現:J. -N. -L.デュラン『比較建築図集』を中心に」、表象文化論学会第13回大会(神戸大学)、2018年7月8日。
・「絵画の毒:絵の具の物質性について」、京都大学こころの未来研究センター公開講座「芸術と〈毒〉」京都大学)、2018年9月16日。
・「フランス革命期における偉人とモニュメント:死者の記憶と建築空間」、立教大学文学部主催公開シンポジウム「セレブリティの呪縛:18〜20世紀フランスにおける著名作家たちの肖像」(立教大学)、2018年11月24日。

お知らせ2点

1. 11月10日(土)に山形大学にて、表象文化論学会第13回研究発表集会が開催されます。私は午後一(13:00〜15:00)の「研究発表1」にて、司会を務めます。翌11日には学会関連イベントとして、「バザン・レリス・闘牛──映画『闘牛』の上映とワークショップ」もあります。秋深い山形で芋煮を片手に、知的な興奮を噛み締めましょう。
https://www.repre.org/conventions/13_1/


2. 11月24日(土)に立教大学で開催される下記の公開シンポジウムに、私も登壇いたします。皆様のご参加をお待ちしております(立教大学関係者でなくともご参加いただけます)。

公開シンポジウム「セレブリティの呪縛:18〜20世紀フランスにおける著名作家たちの肖像」
日時:2018年11月24日(土) 13:00〜19:30 
場所:立教大学池袋キャンパス 11号間3階 A304教室
(事前申し込み不要、参加費無料)


【趣旨】
現代のセレブリティやスターのような、不特定多数の視線に晒される存在の先駆けとして、18〜20世紀フランスで活躍した作家・芸術家・思想家たちを捉え直すことはできないでしょうか。創作活動によって彼ら彼女たちが「著名人(セレブリテ)」になったのは紛れもない事実です。ですが、同時に、「著名性(セレブリテ)」は彼ら彼女らの作品の創造や思索にも決定的な影響を与えたのではないでしょうか。サルトルにはじまり、ピカソユルスナールバルザック、サンド、スタンダールシャトーブリアン、ルソー、ヴォルテールといった有名作家・芸術家・思想家たちが、「著名性」ととり結ぼうとした関係について検討します。


【タイムテーブル】
13:00〜 開会の辞、シンポジウム趣旨説明
開会の辞 吉岡知哉(立教大学名誉教授)
趣旨説明 齋藤山人(日本学術振興会特別研究員)
総合司会 桑瀬章二郎(立教大学文学部教授)


13:15〜 第1部 偉人たちの格闘(あるいは饗宴)
司会/コメンテーター 吉岡知哉


15:05〜 第2部 セレブリティを著す:有名作家たちの内省
司会/コメンテーター 小倉和子(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)


16:55〜 第3部 “モダン・タイムス”の狂騒
司会/コメンテーター 森本淳生(京都大学人文科学研究所准教授)


18:45〜19:30 全体討議


【お問い合わせ】
立教大学学部事務1課 文学科フランス文学専修担当 TEL:03-3985-3392
齋藤山人 yamatosaito[a]rikkyo.ac.jp
桑瀬章二郎 skuwase[a]rikkyo.ac.jp
([a]を@に変えて送信してください)


【主催】
立教大学文学部文学科


【キャンパスマップ】
http://www.rikkyo.ac.jp/…/qo9edr00000…/img-campusmap_ike.pdf


【ウェブサイト】
http://www.rikkyo.ac.jp/events/11/mknpps000000k3w4.html
http://www.rikkyo.ac.jp/foot-bungaku/flyer3Script2.htmスマートフォン向けJavaScript

セルフFD:マージナル/非選抜型/ボーダーフリー大学で人文学を教えるということ

轡田竜蔵「地元志向と社会的包摂/排除」、樋口明彦編『若者問題の比較分析―東アジアの国際比較と国内地域比較の視点』(法政大学科研費プロジェクト「公共圏と規範理論」論文集)、2009年、151-170ページ。
http://soc.hosei.ac.jp/kakenhi/ronbun/pdf/2008/kutuwada2009.pdf

こうした実態を踏まえれば、高度大衆教育社会がこうしたノンエリートの地元志向の若者を包摂しようとするために必要なのは、過酷な労働力市場に適応すべく、規律訓練の強化によって職業レリバンスを高めるような専門学校化への道筋よりも、むしろ大学の自由を生かしながら、労働力市場によって「無能力」と烙印を押されたさいの「自分自身からの排除」をいかに防ぐために、「精神的な“溜め”」を作っていくという観点ではないだろうか。
(上掲論文、167ページ。)

以下の公開講座に登壇いたします。


・今年も京都造形芸術大学藝術学舎公開講座にて、「身体とファッション」の集中講義を行います(9/4(火)・9/5(水)の2日間)。ご参加予定の方、よろしくお願いします。
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1821107
(受講申込は終了しております。直前のお知らせになってしまい申し訳ないです。)


京都大学こころの未来研究センター主催公開講座「芸術と〈毒〉」に登壇します。
対象は「学生・研究者」とありますが、無所属・在野を含めた広義の「研究者」と解釈して大丈夫だと思います(たぶん)。9月16日に京都にお越しいただける方はぜひ。

9月16日(日)、学生・研究者を対象とした公開講座 「芸術と〈毒〉」を開催します。
〈毒〉とは、避けるべきものでしょうか? 〈薬〉が用い方しだいで〈毒〉にもなるように、〈毒〉も本当は私たちの世界や人生にとって重要な役割を果たしているのではないでしょうか? この公開講座ではこのテーマについて、アートを通して考えてゆきます。

▽日 時:2018年9月16日(日)11:00〜17:30
▽場 所:京都大学稲盛財団記念館3階 大会議室
     京都市左京区吉田下阿達町46(川端近衛南東角)
▽講 師:吉岡洋(京都大学こころの未来研究センター特定教授)
     加藤有希子(埼玉大学基盤教育研究センター准教授)
     大久保美紀(パリ第8大学造形芸術学部講師)
     小澤京子(和洋女子大学人文学部准教授)
▽参加費:無料
▽対 象:学生、研究者
▽主 催:京都大学こころの未来研究センター
申込方法:申込は不要です
問合せ:yoshioka.hiroshi.7s*kyoto-u.ac.jp
(*を@に変えてお送りください)
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/event2/2018/08/20180916-Yoshioka-JT.php

【追記】こころの未来研究センターウェブサイトに、上記公開講座の報告がアップロードされています。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/news2/2018/09/20180916-Yoshioka-JT.php