記憶と書記行為

皮質の場合であろうと、あるいは社会文化的な用語に翻訳して、われわれが書くこと(ecriture)と呼んだものの場合であろうと、常に書き込み(inscrire)がなされなければならないとということは、確実に言える。書き込むことなしに、つまり何の支え(support)もなしに思考することはできない。この支えはどのようなものでもかまわない。目下のところ支えはさまざまに変化している。もしかしたら、われわれはまだ「正しい」支えを持っていないのかもしれない。もしかしたら、これら[ディジタル技術]のスクリーンは皆、まだ不完全な支えなのかもしれない。なぜならそれらは手稿や筆記板に比べて、まだあまりにもアナログすぎるからだ。[…]いずれにせよ、書き込むということが最低限の前提だ。
(J.F. Lyotard, Statement in Kultur-Revolution 14, 1987, S10f: 引用はアライダ・アスマン『想起の空間》安川晴基訳、水声社、2007年、213頁より)