銀座のハウス・オブ・シセイドーで開催中の「セルジュ・ルタンス...夢幻の旅の記録」展へ。

女性の身体を覆い隠しつつも、隙間から彼女の皮膚を垣間見させるレース。漆黒の繊細なカットレースは、モデルの肌に一分の隙もなく貼り付き、まるで皮膚の上に直接描かれているかのように見える。ミソジニーモダニストアドルフ・ロースは、装飾は野蛮であり罪悪であると糾弾したが、女性の身体の表層に過剰なまでの装飾を施す――顔や腕にレース模様をあしらったり、手袋の上から石炭を隙間なく敷き詰めたり――ルタンスは、その対極にいるであろう。しかしそれは例えば刺青のような、表面に刻み込むことで完全に皮膚と一体化し、半永久的に存続する装飾ではなく、あくまでも暫定的な第二の皮膚に留まるのである。ちょうど化粧のように。

女性の皮膚を支持体として何かを描く/書くという点では、ピーター・グリーナウェイの『枕草子』を連想させる。

古典古代のギリシアやローマ、あるいはエジプトの形象、シュルレアリストピカソらの着想源ともなったアフリカの仮面、中国趣味の飾り物、構成主義的なモチーフの数々など、過去の芸術史を参照したオブジェの数々も展示されている。傍らには、それらのオブジェを身に纏うことで自らオブジェと化す女性たちのポートレートが飾られる。

会場ではルタンス監修の映像作品も流れている。華麗で神秘的なメイキャップや衣装はもちろん、壊れかけの機械人形のような奇妙なパントマイムも印象的だ。本展の案内文にはジャン・コクトーの言葉が引用されているけれども、コクトーの映画『オルフェ』や『美女と野獣』に出てきた、生身の人間の扮する彫像のぎこちない動きに、どこか似ているのではないかと思う。

階段を上がってすぐのところに展示された、エトルリアの彫刻風の機械仕掛けで動くオブジェには、殊更に魅了されてしまった。古代の兵士を象った裸像で、両眼は刳り貫かれて空洞になっている。しばらく真っ直ぐ前を向いた後、ゆっくりと顔を斜め下に伏せ、おもむろに正面に向き直る。この種の彫像が不思議なのは、眼球の表現が完全に省略されているにも関わらず、不気味なまでの迫真性を有していることだ。突然向き直ってこちらを見つめ返す貌の、二つの漆黒の空洞、不在の眼球から放たれる眼差しに射すくめられたような気がして、しばらく動けなくなる。

向こう側にある女性の顔貌や身体を透かし見させるレースやヴェール、煙といったモティーフに、ルタンスは拘り続ける。それは半透明のヴェールの背後に裸体の女を、生を、そして真実を見たニーチェにも、どこか重なるのではないだろうか。