関東大震災後の東京における知覚の変容、小村雪岱の場合。「余韻」としての在りし日の面影。

こうした知覚のあり方[=雪岱の文章に表れた、二つの異なる知覚形態の重ね合わせ(パラタクシス)]は記憶の記銘と想起に深く関わっている。二十歳過ぎまで暮らした日本橋檜物町界隈について、雪岱はこう書いている――

そしてこの一廓は震災の時にことごとく焼けましてあと暫く焼野原となつてゐましたが、今ではその跡に見上る様な石造のビルデングが建ちまして元の一廓は地面の底へ埋められた様な心持ちがいたします。此程人を訪ねて此ビルデングへ参りました。此日は誠によく晴れた靜な日でありましたが、應接間で人を待つて居りますと、昔の事が思ひ出されて、何となく空の方で木遣の聲が聞える様な心持が致しました。
小村雪岱日本橋檜物町』平凡社ライブラリー、31-32ページ。)

 この木遣の声こそはまぎれもなく余韻である。夕日の日本橋檜物町も、雪岱のなかでは決して消失したのではなく、石造ビルディングの地下に埋められ、それによってそのまま保存されているのである。もちろんそれは実際にはそこにはない。しかし、問題なのは日本橋檜物町がいまだにそこにあるかのように見る、アルド・ロッシの言う現代都市へと向けられた「考古学者の目」なのだ。
 雪岱は同じく震災で焼けたあとの龍泉寺町に「昔からの土地の匂ひ」が残るのを感じとり、様子の変わった町に「にじみだしてゐる昔ながらの心持」に胸つまらせる。「此邊の人々の顔立や姿形も何となく外の土地と違つて居りますし、表に遊ぶ腕白の顔などにも三五郎正太の俤を見るのであります」(小村、上掲書、35ページ)。

田中純『都市の詩学』82-83ページ。)