ディドロやグーシエにとっては、また、アンシクロペディスト一般にとっては、世界は全く解読が可能な、開かれた大きな書物なのだ。その書物がそれ以前に「解読され」なかったのは、あまりにも多くの偏見から書物が「開かれる」のを妨げられていたからであり、また、人間がそれを解読できそうな語彙と統辞法を有していなかったからなのだ。《百科全書》には、書物というイマージュと同時に、書物を書くために役立つ言語の辞典およびこの言語を使用し、それを理解させてくれる文法書とになろうという目論見がある。それゆえに、《百科全書》に付随する『図版集』は、かくも多くの図版を生んだ世紀の最も驚嘆すべきユートピアなのだ。そこでは、すべては透明で、くもりがなく、神秘はない。そしてそこでは、すべては記号[ルビ:シーニュ]なのだ。マニュファクチュア、工房、店舗の壁は、通常は通行人の人の目の届かぬところで行なわれていることをわれわれに見せようとして、ぶち壊される。断面図の中には、機械のスプリングや歯車および地球の内部や人体の内臓をもわれわれに見せてくれるものもある。
(上掲書、14ページ。)


「解読可能な書物」としての世界を、リテラルな書物に網羅的かつ体系的に記述する試みとしての『百科全書』。同時にそれは、世界を読み解くための「辞典」や「文法書」でもあらんとした、とジャック・プルーストは言う。

『図版集』[…]の主たる欠点は、本文の巻に含まれる記述と容易に一致しないということである。[…]企画の初期に用意された図版が作り直された時、本文の脈絡に散らばる参照記号と図版と図[ルビ:フィギュール]の番号の順位との間においては、『図版集』に該当するもののないものもある。それとは反対に、図版のいくつかのまとまりには、その名にふさわしい技芸の論考が序文につけられていて、それ自体で完結しているものもある。一般的な印象は、計画の欠如という感じである。
(上掲書、11ページ。)


しかし、実際には様々な事情から、テクストによる説明(『百科全書』本文)とそのイラストレーション(別綴じで刊行された『図版集』)との間には「齟齬」が生ずる。コメニウスの『世界図絵』(初版1658年)のような、図版中のアルファベット記号とその欄外に付された説明文との完全で透明な一致は、『百科全書』では破綻しているのだ。

関連エントリ:http://d.hatena.ne.jp/baby-alone/20120903