ワタリウム美術館で開催中の寺山修司展「ノック」(http://www.watarium.co.jp/exhibition/1307terayama/)へ。寺山というと、今となってはあまりにも「ある種の紋切り型」として消費されてしまっている人物だが、中学生時代の学級新聞から後年の様々な舞台・映像作品、その中で使われた珍妙な「機械装置」の実物などを見て、改めてその面白さに気付かされる。

例えば、「映画、スクリーン/皮膚のメタファー、表層性」というのは現在では陳腐化した問題設定かもしれないが、既に1970年代から「消しゴム」や「一寸法師を記述する試み」、「疱瘡譚」、「釘」などの短篇映画を手掛けていた寺山は、やはりパイオニアだったのだろうし、今だからこそ可能な分析もあるのではないか。

「奴婢訓」や「書見機」など、「独身者の機械」モノというべき作品も面白い。「奴婢訓」の機械群はこの展示で初めて目にしたが、目玉交換機やら尻叩きの機械やら、その清々しいほどに馬鹿馬鹿しい無意味さが素晴らしい。ブルーノ・ムナーリのナンセンス機械にはどこかポエティックな美しさがあるが、寺山の場合はサティリスティックな哄笑と微かな異化効果を惹起するナンセンスさとでもいおうか。

「ワタシハアナタノ病気デス(疫病流行記)」、「猫の目の光でポルノグラフィを映写せよ」、「球体には裏側というものが存在しない(「阿呆舟」ノート)」など、寺山語録も堪能できた。「球体には…」の一節は、ルドゥ、ブレあたりの建築論のエピグラフにしたい。