カラクテール概念の射程

始終、此本をお読み下さる間じゅう、著者はさまざまの性格即ち当世気質の色々を描いているのだということを、念頭においていただきたいということである。まったく、私はそれらの性格を屢々フランスの朝廷や我が国民の間から採ってはいるけれども、さればと言って、それらを唯一つの朝廷に局限し、それらを唯一国の中にのみとじこめて、お考えになってはいけないのである。それでは私の本が大いにその範囲と効用とを失うばかりでなく、人間一般を描こうという私の計画にもそむくことになるし、又文章の順序配置やそれらを作り上げている色々な反省の間を結ぶ目に見えない繋りなどを規定する、諸々の理由も全くわからなくなってしまう。
ラ・ブリュイエール『カラクテール――当世風俗誌――』上、関根秀雄訳、岩波文庫、1952年、30-31ページ。引用に際し、旧字・旧仮名遣いを改めた。)

人は文章のためにも、嘗て建築のためになされたのと同じことを、なさねばなるまい。人は全くゴチック式をすててしまった。夷狄が宮殿や寺院のために移入したそれを。その代りドリヤ式イオニヤ式コリント式を呼びもどした。それで、もはや古代ローマや昔のギリシャの廃墟にでも立たねば見られなくなったものが、近代風になって今も我々の廻廊や柱廊の中に光っている。同じように、書くに当たっても、古代を模倣しなければ、人は完璧にぶつかることも、又それが出来るかどうかしらないが古人を凌ぐことも、到底出来ないであろう。
(上掲書、39-40ページ。)

→「カラクテール」概念とは直接の関係はないが、当時の新旧論争へのラ・ブリュイエールの立場が顕著に現れた部分。ルネサンス期に建築においてなされた古典古代の模倣が、今度は文学においてもなされなければならないと言うのである。「古代の模倣によって古人を凌ぐ」というヴィンケルマン的なダブルバインドは、既にラ・ブリュイエールによっても説かれている。(もっとも後者は、「出来るかどうかしらないが」と自信なさげな留保を付けてはいるが。)17世紀のフランス人にとっては、ゴシック様式は「野蛮な異民族の侵入がもたらした、忌むべき建築」であったことも分かる。これが18世紀には一転し、「我が民族固有の様式」として、ナショナリスティックな賞賛の対象となっていく。

ラブレーは殊にわけが解らない。その著は、何と云っても、説明しがたい謎である。それは一個の怪物(une chimère)である。それは脚が何本もあって蛇の尻尾をした美人の顔である。いやもっと異形の何か他の獣の顔である。繊細巧妙なモラルと不潔な腐敗との奇怪な組合せ(un monstrueux assemblage)である。悪い点では最悪を遥かにのりこえ、下賎なやからをうれしがらせる」もの。善い点では甘美芳醇、最も口のおごった人の食膳にも供することができる。
(上掲書、56-57ページ。)

→作品の混淆的な性格(美点と欠点とが混在している)を指して、「chimère(キマイラ)」「monstrueux(怪物的)」の語が使われている。原文の該当部分はこちら

Galica上のオンラインテクスト全体はこちらから:http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5499861p.r=la+bruy%C3%A8re.langFR