strange eyesその5
もはやSteve Strangeはすっかり置き去りの感があるこの企画。先日のエントリでも紹介したフランスのB級「スペース・ロック」グループ、Rocketsの私設ファンサイトを眺めていたら、彼らが1974年には「グレーのコンタクトレンズ」を使用していたという記述を見つけた。「宇宙人」を意識した彼らのコスチュームやステージパフォーマンスから考えると、映画の特殊メイク用のものを使用していたのかもしれない。瞳の色を変えて見せるには、瞳全体を覆うサイズのレンズ、つまりソフトレンズを使用する必要がある。そのソフトレンズの製品化がなされたのは、1971年のことだと言う。ソフトレンズ開発後、随分と早い段階で、「眼の色を変えるための手段」が登場していたことになる。
ストレンジのメイクはかなり「お耽美」の色が強かったが(「だって僕キレイなものが好きだもん」的なノリ)、Rocketsは「人外の存在」を志向するもの。全身を銀色に塗り、スキンヘッドに人間離れした目の色という風貌は、ニュー・ロマンティック勢によるgender bendingとは全く別の方向性が、「化粧する男性」にあったことを示しているだろう。
ニュー・ロマンティック・ムーヴメントの話題が出たところで、2005年にイギリスで作られたドキュメンタリー「Whatever Happened to the Gender Benders?」が、YouTubeにそっくりアップロードされていたのでご紹介。
1/5:http://www.youtube.com/watch?v=m_-pR9fowzE
2/5:http://www.youtube.com/watch?v=4RxShhQkDKM
3/5:http://www.youtube.com/watch?v=C4SQR7peb1M
4/5:http://www.youtube.com/watch?v=U80fbWYJfIU
5/5:http://www.youtube.com/watch?v=5K7vmgbxDwQ
ロンドンのコヴェント・ガーデンにあったクラブ、Blitzの花形であり、ニュー・ロマンティック・ムーヴメントの中心的人物でもあったスティーヴ・ストレンジ、ボーイ・ジョージ、マリリンの、栄光と没落を描いたもの。
華麗なトランスヴェスティズムばかりに焦点が当てられがちなニューロマだが、それ以外にもこの時代のサブカルチャーにとって重要な契機を含んでいたことが分かる。当時新進のメディアであったMTVとの共犯関係、音楽プロデューサーの果たした役割、クラブシーンを軸とした人的コネクション、先行ムーヴメントであったパンクとの順接・逆説関係、ドラッグとの連関(ヒッピーたちにとってのドラッグとはまた別の意味を持っていたはずだ)などなど。
いわゆる「ジェンダー論」を援用したサブカルチャー分析は、ともすれば現象記述を既成の紋切り型に当て嵌めてハイ終わり、といった理論構成になりやすく、それが私の「ボーイ・ジョージを語るときにジェンダー論を持ち出したくない」というスタンスの理由ともなっている。とは言え、彼らを語る際にgenderという観点が外せないのもまた事実だろう。挑発的な自己演出の手段として、自分はゲイだという虚偽のカミングアウトを行ったグラム・ロックの第一人者とは異なり、意外にもストレンジやボーイは、人気絶頂期には自らのセクシャリティについて明言することはなかったという。現在の日本の視点からグラム・ロックやニュー・ロマンティックを振り返ると、「ヴィジュアル系の源流」の一言で片付けられてしまいがちだが、既存のジェンダーを越境し、歪曲させ、あるいは拡張する際の手つきは、それぞれに異なるものだったのではないだろうか。少なくとも、類似性よりも差異に焦点を当てる方が、議論が生産的になるのではないかと思う。
帰国して健康を取り戻した今となっては笑い話だが、初めてこのドキュメンタリーの動画を見たときには、すっかり面変わりしても過去の栄光にしがみつき続けるストレンジの四半世紀後の姿があまりにもショックで、ベッドの上から動けなくなってしまった。折角手に入れた理想の美しい人形を、見る影もないほどに壊されてしまった子供の気持ちと言えば近いだろうか。それは丁度フランスでの最後の日々で、引越し作業(書籍小包だけでも48個あった)に加えて帰国直後に控えた学会発表と博士論文中間審査の準備、うっかり垣間見てしまった「日本人村」の思春期女子なみに難しい人間関係、日本に帰っても自分の場所を成長著しい後進に奪われているのではないかという不安など様々な要因が重なり、心身ともに疲弊していた時期である。
ちなみに、これだけブクブクに太っても、声が嗄れて往年のハイトーン・ヴォイスが影を潜めても、ドキュメンタリー放映後も定期的に逮捕劇を演じていても、やはりボーイは「可愛い人」だと思う。ただ容姿が両性具有的で美しかったというだけではなくて、どこか人間の弱さや愚かしさゆえの哀しさと愛おしさを感じさせるところが、ボーイのもつvulnerabilityとしての「女性性」の所以であり、それが彼の「可愛らしさ」の本質をなしているのではないだろうか。
所謂「社会的マイノリティ」と呼ばれる人々に、自身の「生き辛さ」を投影した挙げ句、過剰に同情的になるのは、むしろ危険なことなのではないかと思っているが、それでも、既成の二項対立のどちらにも属することなく漂うストレンジやボーイは、私にとってsympathyやcompassionの感情を起こさせる存在である。