思考の屑篭


2. 1. 造物主と太陽光線

ルドゥーによる建築構想の中で最も広く知られているのが、『建築論』に収められた「ショーの都市」の計画図であろう。一人の旅行者に仮託された語り手ルドゥーの視線は、この理想都市に置かれた建築物を順繰りに辿っていく。それは現実の身体を有する人間によるものであり、その意味では制約の多い眼差しである。例えばこの眼は、離れた場所にある建築物を、同時に見て物語ることはできない。しかし、架空の都市計画を語る際の仮設的な視線とは別個に、この都市を支配する、唯一の特権的な眼差しが存在している。すなわち、円形の都市の中心に置かれた「監督官の家」から放たれる、全てを見渡す視線である。それはフーコー以来数々の論者が指摘するごとく 、一望監視装置(パノプティコン)の具現化とも見なしうる。

規律・訓練の装置が完璧であれば、唯一の視線だけで何もかもをいつまでも見ることを可能にするだろう。一つの中心点が、あらゆる物事を照明する光源ともなろうし、同時に、知らねばならない事柄のすべてにかんする集約地点ともなるだろう。つまり、何ものをも見落とさぬ完璧な眼であり、すべての視線がその方に向けられる中心である。アル=ケ=スナンを建造するにあたり、ルドゥーが構想したのもそれである。
(Foucault, p. 176.(邦訳版、178ページ))

ルドゥーは「ショーの理想都市」の製塩所平面図について、次のように語る。ここでは「監視」が、百の眼をもつ怪物アルゴス――全身の眼は交代に眠るが故に、怪物自身は常に覚醒している――に喩えられている。

時間が蓄積させる悪徳から、国家を護るものは存在しない。警戒という不安な精神状態は、慎重さを喚び起こす。仮に警戒心が誤った方向に向かうならば、未来を危険から守ることはできない。ここでは、「現在」は幾世紀もの過去に譲歩する。すなわち、放射線/光線(rayon)の中心に置かれているので、何ものも監視の目から逃れることはできないのだ。監視なるものは、他の数百もの眼が眠る間にも百の眼を見開いている。その灼熱の眼差しは、不眠の夜を絶え間なく照らし出す。
(Ledoux, p.103.)

この引用部分には、一見論理的な繋がりが存在しないように思われるテクストが前置されている。すなわち、建築芸術が国家と結合すべきこと、記念的建築を荒廃のままに放置すれば、国家は甚大な害を被ることが説かれる。記念的建築を蘇らせる契機を失うことは、人間の能力の放擲であり、それは諸感覚の麻痺した状態に似ている。このような論旨の後に続くのが、上記の引用部だ。したがって、この一節をもってルドゥーが一望監視装置を想定していたと即断するのは躊躇われるのだが、少なくとも彼が、常に放たれ続ける視線というものが持ちうる威力に注目していたことは確かだろう。
このプランがもつ意義は、近代的な監視社会の象徴的な開始点という位置づけに留まらない。監督官の家から放たれる視線というモティーフには、ルドゥーの世界観・建築観を表すシンボリズムが、幾重にも投影されている。この建築家のテクストには、放射状に放たれた視線が、同心円を描いて拡がっていくというモティーフがしばしば登場する。

広大な円環が私の眼前に開かれ、拡がっていく。それは、あらゆる色彩で光り輝く新たな地平線である。力に溢れた太陽という星が大胆に自然を見つめ、眼差しをか弱な人間たちに降り注ぐ。
(Ledoux, p.96.)

ここでは、語り手の眼前に拡がる(想像的な)視野の円環に、あらゆる存在の中心に位置する太陽の放射が重ね合わされている。三宅理一によれば、それはグノーシス的伝統にも連なる太陽崇拝の現れであった(c.f.三宅、92ページ)。
ルドゥーにとって単一の中心から放たれる視線とは、太陽光線と、さらには造物主が被造物を眼差す視線と、アナロジー的な関係を持つものであった。造物主はすなわち宇宙と自然界を建立した建築家であり、そしてまた建築家は造物主のメタファーで語られるべき、特権的な創造者なのである。被造物としての世界を眼差す視線とは、具体的な監視者のものでありつつも、太陽の放射光線の類似物であり、造化の神のものであり、そしてまた建築家のものでもありうる。
この放射状に拡がる視線の背後には、全てを隈無く見たいという欲望が隠されている。ベンサム考案によるパノプティコンで想定されているのは、透徹した視であり障壁のない透明な空間であった。ルドゥーは透視図法の利点を説いて、次のように言う。

自然は、眼に対して、耳よりも多大な信頼を置いた。[…]透視図は、眼が追い求めることのできるあらゆる地点を、その枠内に集合させる。
(Ledoux, p. 99.)

ここには徹底的な視という、いわば一つのフィクションに対するルドゥーの信頼が、端的に現れ出ている。透視図法の語源はラテン語のperspectivaであり、すなわちper(通して)+specto(見る)である。(ちなみにperという接頭辞は、空間のみならず時間的な含意も併せ持つ。)三次元空間を表象する技術という次元を超えて、ここでは視線を空間に侵入させていくことへの欲望が語られている。


【参考文献】
Ledoux, Claude Nicolas, L’Architecture considérée sous le rapport de l’art, des mœurs et de la législation (1804), Paris : Hermann, 1997.
Foucault, Michel, Surveiller et punir : naissance de la prison, Paris : Gallimard, 1975.[フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年.]
三宅理一『エピキュリアンたちの首都』學藝書林、1989年.