啓蒙思想家たちと「散歩」 散歩をするディドロ

一年前の文章の続き。

今書いているテクストに関係あると思ったらあまり関係がなくて、書架に戻そうとした本(ラクー=ラバルト『近代人の模倣』)に、ふと「啓蒙思想家たちと散歩」というテーマに関連する一節をみつける。ディドロ(による執筆とされる)『俳優に関するパラドックス』で、フィクショナルな「対話者」どうしが、ともにただ黙々と歩くという場面である。

われらが二人の対話者は芝居に出かけたが、席がなかったのでテュイルリーへと向かった。彼らは少しのあいだ黙々と散歩をした。二人は一緒だということを忘れはてたかのようであった。自分一人しかいないかのように各々が自分相手に会話をしていた。
(大西雅一郎による訳より孫引き、11ページ。)


Nos deux interlocuteurs allèrent au spectacle, mais n’y trouvant plus de place ils se rabattirent aux Tuileries. Ils se promenèrent quelque temps en silence. Ils semblaient avoir oublié qu’ils étaient ensemble, et chacun s’entretenait avec lui-même comme s’il eût été seul …

Wikisource, Paradoxe sur le comédien, Paradoxe sur le comédien - Wikisource

 

沈黙しつつのぶらぶら歩きが(とはいえ、テュイルリーという目的地は定まっているのだが)、それぞれの「対話者(interlocuteur)」の内に、「独話」や「内的対話」としての思考を生じさせるのである。

もっとも、この部分を引用したラクー=ラバルトの主眼は、ミメーシス論、演劇論(そのパラドックス)にある。ディドロのテクストの語りが、二人の対話、独話、内的対話のダイナミズムから構成されていることへの言及はあるが、「散歩」については触れられていない(まあ、当たり前だろう)。