corps morcele

ヒッチコック-シャブロルのラインで思い出したこと。二人とも、フレームによって登場人物の身体を分断するときのやり方が上手いのだ。例えば『見知らぬ乗客』の冒頭での、膝下だけの脚が、駅の雑踏を足早に歩んでいくシーン。「見知らぬ乗客」ブルーノ(と後に分かる人物)が履いているのは、白と黒のバイカラーになったエナメルの靴で、その鮮やかな白黒のコントラストと艶やかな質感は、雑踏の中でひときわ目を引く。この小道具だけで、この靴の持ち主が劇中で重要な役割を担う人物だと分かる。シャブロルの『Merci pour le chocolat』では、展覧会のヴェルニサージュでの群集シーンが面白い。その寸断の仕方は、リンダ・ノックリンが『Body in Pieces』で指摘する、マネやルノワール、カイユボットらが描いた「分断された身体」に近い。(もっともノックリンが19世紀の画家たちに見出すのは、ボードレール的モデルニテの徴表であるから、その分析をシャブロルに援用しても詮が無いと思うが。)二人のピアニストによる演奏シーンでも(「替え玉」を演奏者として使っているという、現実的制約による面も大きいのだろうが)、ピアノを弾く手元だけが切り取られてカメラに収められ、あるいは前面の譜面台に映し出される。
映画の中で、「身体」が(フォーマリスティックなレベルで)いかに映されてきたのか、意識的に観てみるも面白いかもしれない。