フェノロサ天心流ギリシア天平幻想の継承者、和辻の古代観について。日本近代文学会大会での発表原稿とのこと。ちなみに、このときの大会企画テーマは「幻視される古代/原郷としての日本」だったそうだ。
焦点が当てられるのは、『古寺巡礼』というテクストの内包する「不安定さ」である。

[和辻の]人格主義の理想[=人格向上を目指す自己懲罰的態度]が他面でもたらす、こうした不安定な心理に対して、安らぎに満ちた理想世界の姿を、生き生きと思い描けるようにしたのが、奈良の古美術をはじめとする古代日本文化との出会いにほかなりません。(178ページ)

和辻は、すぐれた人格が美しい作品を生み出し、人と人とが調和しながら生きている人格主義の理想世界を、古代の日本に見出したのです。(178ページ)

この引用部のすぐ後では、「理想郷としての古代日本」という表現も用いられている。

人格主義の主張は、教養主義と直接に結びつきます。理想的な人格に到達するべく、向上の努力を続ける過程で大事なのは、過去の偉大な人物が作りあげた作品の鑑賞を通じて、みずからを高めてゆくことだと和辻は語ります。偉大な藝術作品や哲学の古典はみな、その媒介物になる。この教養の内容としては、人類の歴史上のすぐれた文化産物のすべてが含まれるので、この立場は世界中の文化から学ぼうとするコスモポリタニズムの発送にもつながります。「大正教養世代」と呼ばれる思想潮流は、このような思考回路をもっていました。しかし、コスモポリタニズムといっても、現代の文化相対主義の主張に見られるように、あらゆる世界の文化がそれぞれに偉大であると考えるわけではありません。その理想の頂点に置かれているは[ママ]、古代のギリシアです。(181−182ページ)

『古寺巡礼』という本が、古代の日本文化を高らかに賛美するのは、その日本的な特性のゆえではありません。和辻はむしろ、シルクロードと中国を経由して、ギリシアの藝術が古代の日本に流入し、それが、たとえば法隆寺の回廊の柱のエンタシスに見られるように、建築・彫刻や伎楽に強く影響を与えたと論じています。つまり、世界中のさまざまな文化が流れ込んでいっせいに花開いた、コスモポリタニズムの理想郷を、古代日本に発見したのです。そして、それが賛美されるべきなのは、和辻にとっては、法隆寺金堂壁画を好例として、そこにまさしく「希臘精神の復興」が見られるからでした。(182ページ)

和辻は『古寺巡礼』の中で、ギリシアと日本の気候や人間の性質の類似を指摘しているが、苅部氏によれば、当時の日本では同様の言説が広く流通していた。

  • フュステル=ド=クーランジュ『古代都市』(1864年):古代ギリシア・ローマの都市国家では、氏族の祖先に対する崇拝を、国家の神への信仰へと包摂することで、共同体としての統合が確保されていたと論じたもの。明治20年代には穂積八束がこの著に基づき、天皇の祖先神を崇拝する「祖先教」を「国体」の中心としている。和辻も『ポリス的人間の倫理学』(1948年)の中でこの著に言及。
  • 木村鷹太郎『日本の使命世界の統一・日本太古小史』(益文堂書店、1913年):ギリシア語と日本語の類似を指摘、皇室を中心とする日本人はギリシアで生まれ日本列島に移住したと説く。木村は在野の哲学者で、プラトン全集の初の邦訳者(英訳に基づく翻訳)。

穂積や木村によれば、古代ギリシアと共通する古代日本の伝統は今日まで連続しており、それが皇室や「国体」を護持すべき根拠となっている。しかし和辻においては、古代ギリシアと通底する古代日本の姿は、既に失われた理想郷なのである。苅部氏は『古寺巡礼』のいたるところに、このような「喪失の嘆き」を見出している。
もっとも和辻は1920年代末以降(『風土論』『日本倫理思想史』)、国民性や伝統の連続性を強調する方向へと転じてゆく。『古寺巡礼』の第二次改訂版以降の本文も、この転調に伴って書き換えられることとなる。(現在の岩波全集版、岩波文庫版の文章は、書き換え後のもの。)苅部氏は、このような変化をもたらす揺れが、『古寺巡礼』初版の段階で既に胚胎していたとし、「日本人の痕跡」と題された章に見られる「自分とつながっているものを古代の日本のどこかに見いだし、それを無条件に肯定したい、という切迫した感情」を指摘している。

この奈良という空間に自分の故郷を見いだして、その中に没入してゆきたいと思う視線と、それから距離をおいて、世界の文化の中に奈良を位置づけ、一種のコスモポリタニズムの理想郷として描こうとする視線と、二つのあいだのずれや揺れを抱えたテクストとして、『古寺巡礼』はなりたっているのです。(186ページ)