あるゼミにて、明治20年代のギリシア幻想について分析した拙論を発表する機会をいただく。

フェノロサ岡倉天心伊東忠太らのギリシア熱(=日本美術史の起源に存在するギリシア)が、明確な歴史意識に支えられたものであるのに対して、志賀重昂の国土や風景に対する態度は、平面的かつ超時間的であるという指摘は示唆的だった。明治20年代のギリシア憧憬と言っても、それは決して一枚岩のものではなく、むしろそれぞれの構造上の差異の方が際立っているように思う。矢野龍溪のようなギリシアの政治体制への参照は、他の論者には希薄なように思われるし、日本美術史の構築者たちとは対照的に、志賀には時間意識・歴史意識といったものが欠落しているからである。

また、天心や忠太の美術史観は明らかに「様式史観」であり、また忠太の言う「精神素」は19世紀ウィーンの美術史家たちが言う「Kunstwollen」に相当するのではないかという指摘もいただいた。(フェノロサの美術史観とウィーンの美術史家たちのそれとの共通性は、すでに加藤哲弘氏が指摘されている。)明治期の美術史記述がそのような認識枠組の下に行なわれたのか、西欧の美術史体系との継受関係はどのようであったのか、そしてそのような美術史観が、当時の皇国史観や古代幻想とどのような関係を取り結んでいたのか、範囲はだいぶ広がってしまうけれど、一度俯瞰しておきたい問題だと思う。

18世紀西欧のシノワズリについて研究されている方からは、山本芳翠の描く浦島の「古代風」の衣装が、西洋人が描く東洋人のイメージに似ているという指摘をいただいた。パリに十年間留学していた芳翠が、実際にそのような画像を目にしていた可能性も十分にある。明治20年代以降しきりに視覚化されるようになった「古代日本人」の表象に、もしも西洋人が思い描いた「東洋的なもの」のイメージが密輸入されているとしたら、とても面白い論を展開できそうだ。自国の歴史の純粋さと連続性を担保しようとする試みが、結局は混濁した、不純なものへと至ってしまうということ。