群島

マッシモ・カッチャーリの、あるいは彼に纏わる邦語文献の総括、続き。
以下出典はすべて「都市の政治哲学をめぐって――ヨーロッパ/アジアの地-哲学」『批評空間 第3期第4号』2002、72〓104頁.斜字体による強調はすべて引用者。)

つまりこのように都市は、矛盾した複数の要求にさらされている。都市のこのような矛盾を克服しようと欲するのは、悪しきユートピアであるだろう、と私は考えます。都市とはこの矛盾なのです。[・・・]全歴史における都市とは、この矛盾、この衝突に形を与えるための永遠の実験なのです。

(基調講演でのカッチャーリの発言)

秋吉台芸術村[引用者註:磯崎新設計によるホール]ではさまざまな音が色々な方向からちがった形で流れてくるわけで、聴衆がそのクロスする音をそれぞれの位置で受けることによって自分の中でオーケストレーションが出来上がることになる。[・・・]僕は、この空間こそが、カッチャーリさんの言われる「群島」なのではないか、聴衆はいわば「海」にあたる場所にいて「群島」がそれぞれ発信している音を受け取るようになっているのではないか、と思うんですね。

(パネルディスカッションにて、L.ノーノ作曲『プロメテオ』についての磯崎新の発言)

(「海」に、グローバリゼーションやワールドワイドウェブの均質化された空間を読み込む浅田彰の解釈に対し)ヨーロッパの伝統においては、海は決して不毛ではなく、決して等質的な空間ではありません。

(パネルディスカッションでのカッチャーリの発言)

群島を作る条件としては、それぞれの島、身体、建築物の総体が決して固定されず、壁に囲まれていないことが重要です。[・・・]

群島とはどんなものしょうか。群島とは、個々の島がそれぞれ個性をもっているが、それは同時に群島のなかの一部であるような、開かれた個性、相手を受け入れる個性、そして他者との関係によって成り立つ個性である、そういう島々の集まりです。

(パネルディスカッションでのカッチャーリの発言)

(基調講演と今までのパネルディスカッションを受けて)今日の講演の中で、広義の「都市」というものはなく、複数の都市しかないと、最初に言われました。これはジャン=リュック・ゴダールが「複数の映画史」(Histoire(s) du cinema)というふうに「映画史」にsをつける考え方にも非常に近いと思います。要するに、都市というのは決して一つの概念で共通に支配されているものでもなければそれによって語りうるものでもなく、すべてが個別の議論の対象として個別の性格をもって取り出されるべきものである、ということですね。これは「群島」にいたる一つの重要な前提であろうと思います。

(パネルディスカッションでの磯崎新の発言)

[引用者註:アインシュタインを引きつつカッチャーリが言う、「特殊相対性理論」の都市に対して]一般相対性理論の都市というのは、「軟体動物」という風に言われましたし、海綿(スポンジ)状の入り組んだ迷路というイメージにもなるのでしょうが、いわばユークリッド幾何学の空間に対してトポロジーの空間だと見ていいと思います。歴史的には、これはヴェネツィアそのものではないか。[・・・]
このトポロジカルな軟体動物的都市は、常に生成変化を繰り返している。一つの目標に向かって最終的に纏まっていくような強固なイメージではなくて、常にイメージが崩れては変化していく。その決定的な最終形態を誰も示すことができない。

(パネルディスカッションでの磯崎新の発言。なお、カッチャーリのその後の発言は、基本的には磯崎のこの総括を肯定している。)

都市は今日いたるところにあり、それはつまり都市はないということです。われわれは、もはや都市にではなく、「テリトリー」に住んでいるのです。[・・・]今日では、都市に境界を定めることが不可能になっている。あるいはよくても、それは純粋に技術的-行政的な事柄に還元されてしまっている。われわれは、全く偶発的な理由から、この「エリア」のことを都市と呼んでいる。しかしその境界は単なる装置でしかありません。
ポスト・メトロポリスのテリトリーとは、出来事の地理なのであり、ハイブリッドな風景を横断していく諸連関の実践なのです。

(カッチャーリによる基調講演「現代都市の哲学」より)