永井荷風の東京逍遥

荷風は、大正に入りますます急速に失われゆくようになった「江戸的なもの」の面影と残存を、現在の東京の無目的な散策を通して見出そうとする。そして荷風の散策は、彼が18世紀初頭のパリの新聞記者アンドレエ・アレエの例を出して言うような、主体的・積極的な「観察」を目的とするものではなく、徹底して無目的なものである。(高等遊民の無聊ゆえの無目的な移動という点では、19世紀の文学者たちの旅行とも共通するのではないかと思うが、しかし散歩と旅行は決定的に異なる。)

【無目的な散歩への愛】
然し私の趣味の中には、自からまた近世ジレッタンチズムの影響も混っていよう。[…]私は唯西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人が居た事を断って置けばよいのである。[…]然るに私は別に此と云ってなすべき義務も責任も何もない云わば隠居同様の身の上である。その日その日を送るに成りたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。
永井荷風『日和下駄 一名 東京散策記』(初出1915年)、『現代日本の文学II-2 永井荷風集』学習研究社、1976年、199ページ。)

モダニズム都市の礼讃でも、古蹟保存の試みでもない東京逍遥】
されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美して其の審美的価値を論じようというのでもなく、そればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探り此れが保存を主張しようという訳でもない。[…]それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて好勝手なことを書いていればよいのだ。
[…]
元来が此の如く目的のない私の散歩に若し幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘に日和下駄を曳摺って行く中[うち]、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、或は寺の多い山の手の横町の木立を仰ぎ、溝[どぶ]や掘割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となく其のさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時我にもあらず立去りがたいような心持ちをさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。
[…]
然し私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易に其の特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。
(上掲書、201ページ。)

【現在の光景に江戸的なものの面影を重ね合わせる】
蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板[ママ]の江戸切図を懐中にする。これは何も今時出版する石版摺の東京地図を嫌って殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合わせて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである。
(上掲書、206ページ。)