韓国の雑誌『PLATFORM asia culture review』No.31(Jan/Feb,2012)に、「メタボリズムの未来都市」展レビューを寄稿いたしました。韓国のカルチャーシーンへの紹介記事ということもあり、ごくごく一般的なメタボリズムの解説と、森美術館で行われた展覧会の趣旨と意義の説明です。(そもそも私はメタボリズム建築の専門家ではない、という要因も大きいのですが。)
私が日本語で執筆した原稿を、韓国のスタッフが翻訳してくださいました。日本語原文は以下の通りです。

 現在、東京の森美術館にて「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」(2011年9月17日から2012年1月15日まで)が開催されている。本来、生物の新陳代謝や物質交代を意味する「メタボリズム」は、1960年に、日本の建築家らで構成されるグループにより、自らの目指す都市と建築の理念を端的に指し示す語として採用された。世界デザイン会議の東京での開催を見据えて刊行された書籍『METABOLISM/1960――都市への提案』は、この「メタボリズム・グループ」によるマニフェストであった。建築批評家の川添登が理論的主柱をなし、建築家である菊竹清訓、大𣴎正人、槇文彦黒川紀章の他、インダストリアル・デザイナーの栄久庵憲司や、グラフィック・デザイナー粟津潔も参画していた。丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、磯崎新もコミットし、1970年代半ばまで続くムーヴメントとなった。
 「メタボリズムの未来都市」展は、写真や設計図、建築模型、映像、新たに制作されたCG動画などを駆使し、このメタボリズム建築運動の概略のみならず、その基盤や背景までも浮かび上がらせようとするものである。

1.メタボリズムの理念と実践
 メタボリズム・グループは、絶えず生成変化し代謝と増殖を繰り返していくという有機体のアナロジーの中に、建築と都市のあるべき姿を見出した。「メタボリズムの未来都市」展は、この建築運動の時系列での変遷を辿りつつ、彼らによるキー・コンセプトを分かりやすく浮上させている。
 ひとつには、建築の基本的構成単位としての「カプセル」概念がある。これは「個人」のための最小限の生活ユニットであり、この個別的な基礎単位を組み合わせることで集合住宅を構成しようという発想である。あたかも生体が細胞分裂するごとく、カプセルを増殖させることで、人口増加に併せて拡大する建築や都市が可能となる。ここには、都市への労働人工への流入という社会的条件と、生活の単位としての「個人」の誕生というメンタリティの反映を見てとることができる。このような「カプセル」概念が具現化した端的な一例が、黒川紀章による中銀カプセルタワービルである。このコンセプトは、プレファブ住宅の原型となり、また南極や深海、宇宙空間での住居の可能性としても検討された。
 次に、巨大な構造体(mega structure)への志向が挙げられる。とりわけ上空に向かって「成長」していく建築物という発想には、大都市の過密化(利用できる敷地の限界)という社会的条件と、建築基準法における高さ制限の緩和という法的・政策的条件も影響している。メガ・ストラクチャー志向を体現した都市計画として、丸の内、新宿、渋谷を対象とした「空中都市」構想(磯崎新、実現せず)や、DNAの二重らせん構造を模したHelix計画(黒川紀章、実現せず)がある。今回の展覧会のために作成されたCG映像は、これら巨大都市計画の「成長・増殖」というコンセプトを、分かりやすく可視化したものである。
 「巨大構造体」はおなじくメタボリズムの鍵概念である「人工地盤」と結合することで、様々な水上都市計画を生んだ。丹下健三研究室のメンバーによる大規模な「東京計画1960」(丸の内−東京湾−木更津を結ぶ都市計画案、実現せず)や、やはり東京湾を舞台とし、海上と空中に大規模都市を構想する菊竹清訓の「東京湾計画1961」(実現せず)はその一例である。
 もうひとつ、メタボリズムを象徴する言葉が「環境(environment)」である。もっともこれは、今日「環境保護」などの文脈で用いられている、専ら自然環境という意味での「環境」概念ではない。メタボリストたちに影響を与えたのは、1950年代から60年代に掛けてのニューヨークのアートシーンで提唱された「環境」概念であった。日本でも1966年には、様々な分野のクリエイターたちで形成される「エンバイラメントの会」が、「空間から環境へ」と題したインターメディアな展覧会を開催している。このエキシビションに建築家として参画したのが磯崎新であり、他にも画家、彫刻家、造形家、写真家、インダストリアル・デザイナー、音楽家美術評論家らが名を連ねた。このようなインターメディア性は、メタボリズム旗揚げ当初からの特質であり、「環境」概念とともに、後述する大阪万国博覧会へと結実していく。
 1970年に開催された大阪万国博覧会は、メタボリズムの集大成であった。この仮説的な祝祭空間は、都市計画の実験的モデルと捉えられ、全体計画は東京大学工学部の丹下健三研究室によって構想された。丹下研究室が1960年代に練り上げたメガ・ストラクチャー都市計画のアイデアが随所で実現され、菊竹清訓によるタワー建築や黒川紀章のカプセル建築が、展示空間として用いられた。また「お祭り広場」では、照明や音楽・音響、大道具、映写装置などを制御する巨大なロボットにより、来場者を取り巻く「環境」そのものが変化するというエンターテイメント空間が出現した。展覧会場では、当時万博パヴィリオンに使われた構造体の一部や、「お祭り広場」で流れた現代音楽を実際に体験することができる。

2.メタボリズムの基盤と背景
 メタボリズムの大きな特徴は、都市を「有機体」のアナロジーでとらえる発想であろう。しかしこれはいわゆる自然回帰志向ではないし(むしろメタボリズム近代都市や人工物、科学技術発展への肯定感を基礎としている)、また社会や国家を有機体のモデルで考える政治哲学の伝統とも、関東大震災後に日本の建築界で起った「生命主義」とも、次元を異にしている。高度成長と本格的な都市化がもたらした人やモノ、情報の高速のフローと増大を背景に、固定的な所与の条件としてではなく、流動体・成長体として都市をとらえるのが、メタボリズムの発想であった。
 メタボリズムは単なる造形上の前衛運動ではなく、国家や政治とも密接に結びついたムーヴメントであった。その「政治性」には、様々な次元がある。彼らによる大規模な都市構想は、未来における理想的な国土イメージに結びつくものであり、国家政策や社会改革運動の性質を帯びた都市・建築計画であった。この運動の母胎として、戦前・戦中の植民地における都市計画(丹下健三も参画)があることも、その「国策としての都市・建築論」という性格を示しているであろう。また彼らによる都市・建築計画は、いわゆる産官学(産業界、建設・国土行政関連の官僚組織、大学の研究室)が一体となって実現されたものであり、その意味でも政府や国家と直接に結びついたものであった。歴史の大きな枠組に位置づけるなら、戦後の廃墟からの「復興」という国家的プロジェクトと共振した建築運動だったのである。「メタボリズムの未来都市」展の展示は、戦中の植民地都市計画・終戦直後の復興計画の青写真と、映画『二十四時間の情事ヒロシマ・モナムール』(アラン・レネ監督、1959年)の冒頭で、原爆記念陳列館(丹下健三設計、現・広島平和記念資料館本館)が映し出されるシーンの上映から始まる。この「導入」は、メタボリズムの前提にある精神を巧みに提示しているであろう。
 しばしば指摘されてきたことであるが、メタボリズムは日本から発信され、世界各地で受容された最初の建築運動でもある。とりわけ1970年以降、メタボリストたちは海外へと活動の場を拡げていく。「ナショナル」な性質を内包しつつも、そのコンセプトや設計手法には一定の普遍性があり、それゆえにインターナショナルな展開が可能だったのが、メタボリズムであった。メタボリストたちの国際的な活躍について、本展ではひとつのセクションを割いて紹介がなされている。

3.メタボリズムの収束と後代への影響
 「メタボリズム」を標榜運動自体は、1970年代半ばで終焉をむかえる。アヴァンギャルドで独特の建築デザインが次第にデモードなものとなっていったこともあるが、そもそも彼らの掲げた主義にも、一定の物理的・時代的な制約が内在していた。メタボリストたちの提唱した「絶えず新陳代謝を繰り返す成長体としての都市・建築」という原則は、権利的な次元では可能であっても、現実には物理的な限界が存在する。天上へと向かって垂直に伸びる「塔上都市」や、国土を取り囲む海洋の表面を水平に拡大していく「海上都市」などは、部分的な実現をみたが、「無限に成長し代謝していく有機体」というコンセプトは、一種の「ユートピア構想」としての性質が色濃く、文字通りに現実化することはなかった。
 「メタボリズム」という主義(ism)は、それ自体としてはユニヴァーサルだが、しかしある特定の時代を前提としたものでもあった。このような建築運動が生まれ、支持を得た背景には、1960年代から70年代にかけての日本の、経済的・政治的・社会的状況と、それに基づく特有の心性や認識が存在している。それは高度経済成長であり、所得倍増政策(池田勇人により1960年より推進された10年計画)から日本列島改造論(1970年代前半に田中角栄が主唱)に至る、マクロ・ミクロ両面での拡大成長主義であり、工業発展の推進力となったテクノロジーの飛躍的な進歩であり、それを前提とした科学技術への希望や「未来」「進歩」「成長」といった概念への信頼であった。「近代」を支えてきた様々な枠組に対して、批判的な検討がなされるようになると、狭義のメタボリズムもまた、過去の建築様式・建築運動として位置づけられていくようになる。
 
4.いまなぜメタボリズム再考なのか
 2011年は、メタボリズム再考の年となった。八束はじめ著『メタボリズム・ネクサス』(オーム社)が4月に、レム・コールハースとハンス・ウルリッヒ・オブリストの共著による『Project Japan: Metabolism Talks…』(Taschen)が10月に刊行された。また冒頭でも触れた通り、八束はじめが中心となりキュレーションを手掛けた「メタボリズムの未来都市」展も開催されている。このような動向は、メタボリズム宣言から約半世紀を経た時代に、再度その位置づけと現代的な意義を問おうという意図から生まれたものだろう。3月11日に発生した東日本大震災津波と、それに伴う原子力発電所事故は、メタボリズム再考の気運に新たな意義を付加することとなった。それは「災厄からの復興」という特殊な時代局面における都市・建築計画手法の再考であり、また都市とそこに暮らす住人たちと、それを取り巻く環境との関係性への問いである。「メタボリズムの未来都市」展は、この運動を体系的に整理しつつ、メタボリズム建築のコンセプトや手法・技術の中に、現代における活用の可能性を探ろうとするものである。