思考の屑篭――人体廃墟
比較的記憶に新しい例で言うならば、阪神大震災で破壊した都市や、テロにより崩落するワールド・トレード・センターなども、典型的な「瞬時的廃墟」である。しかしこれらの対象は、「記録写真」に収められることはあっても、「美的な表現」に回収されることはおそらくないだろう。これは例えば、交通事故や殺人事件によって激しく損傷した死体を写した釣崎清隆の写真が、「芸術作品」としてよりもむしろ、観る者に衝撃と生理的嫌悪感をもたらす「グロテスク・イメージ」として流通してしまいがちなことと、おそらくは同根であろう。「暴力による死」の写像を「芸術作品」に昇華するためには、例えば死体を加工しポエティックで絵画的な写真を作り出すジョエル=ピーター・ウィトキンや、活人画的な演出によって死屍累々たる戦場風景を創出するジェフ・ウォールのごとく、「剥き出しの現実」を加工し粉飾すること――それによって、鑑賞のための「距離」を創出すること――が、要請される。それは十八世紀において、薄片化された時間における暴力により出来した廃墟が、あたかも悠久の時を経た古代遺跡であるかのように描かれたことと、通底する心性ゆえではないだろうか。