地面や樹皮の下で蠢動する春の謀なのか、細切れの思考ばかりが次々に湧出しては消えてゆく。
たまたま目にした中島敦山月記』の一節に、頭をはたかれるような衝撃を受けたので、自己の戒めのためにも抜き書いておく。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

子供の頃は、この手の「修身的」な文学作品をなんとなく価値が低いもののように思っていたのだが、今となっては中島敦の人物造形のみごとさがよく分かる。舞台は唐代に置かれているが、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」ゆえに社会から逃避し、凶暴な獣――彼の肥大し歪んだ自己愛の隠喩だろう――と化してゆく李徴は、なんと現代的な人格の持ち主であることか。