廃墟とカタストロフィ

取り寄せて読んでいた雑誌の中で、自分の思考に突き刺さってきた一節。

飯沢耕太郎:本来なら廃墟の方がぼろぼろで怖いはずなのに、あたたかみのある愛玩動物のように見えてしまう。相馬さんがみたような新しいけれども荒廃している風景[入居者のいない多摩ニュータウンの光景]というのは、ペット化されないというか、感情移入を拒否するところがあるんじゃないかな。廃墟というのは、意外と感情移入できるんだな。
相馬俊樹:廃墟写真が人気があるのは、ある種のあたたかみがあって親しめる、そして感情移入できるからなんでしょうか。
飯沢:そう。要するにわれわれの環境が無機化してプラスティックのようなものに覆われているから、ざらざらの手触り感(質感)をみんなが求めている。それを愛撫するような感覚。だから、つまんないんだよね。
相馬:それと、廃墟のなかに溜め込まれた多彩な時間がいとおしい(好ましい)ということもありませんか。
飯沢:そうだね。つまりノスタルジックな時間感覚なんだな。郷愁なんだよ。だから、あまり凶暴性がないわけだ。時間が剥き出しになっているというよりは、なにか滑らかになってしまっているというか……だから、愛撫しやすいんだよ。だけど、さっきいっていた多摩ニュータウンの方は、ちょっと怖いよね。
相馬:そうなんです。中にあるのがどんな時間かわからないんです。無時間ということなのかな。
飯沢:ある種の凶器、凶暴な風景になっているわけだ。
(75ページ)

ある種の廃墟には未だに暴力性が宿り続けていると思うが、「廃墟写真」として流通しているものの殆どは、飼い馴らされて「眼に快い」ものになってしまっているのもまた、否定できない現実であろう。「廃墟」とはベクトルが逆かもしれないが、私が丸の内界隈の保存建築群に妙な違和感を拭えないでいるのも、「過ぎ去った時間の再現前」に対する甘美なノスタルジーが、無批判なままに共有されてしまっているからなのだと思う。


以前のエントリを加筆しました。http://d.hatena.ne.jp/baby-alone/20100211