カテゴリの分類をいい加減に変えたいのだけれど、日記と連動させて一斉に変更することができないようなので、少し困っている。
カテゴリ名とはあまり連関しないけれど、ちょっと訳あって詩編からの引用をいくつか。

「地面の底の病気の顔」

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらがってゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、

冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。
(『月に吠える』)

「竹」
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節々りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

みよすべての罪はしるされたり、
されどすべては我にあらざりき、
まことにわれに現はれしは、
かげなき青き炎の幻影のみ、
雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ、
ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ、
すべては青きほのほの幻影のみ。
(『月に吠える』)

「青空」  表現詩派
このながい烟筒は
をんなの円い腕のようで
空にによつきり
空は透明な蒼穹ですが
どこにも重心の支へがない
この全景は象のやうで
妙に膨大の夢をかんじさせる。
(『青猫』)

「青空」はどこかピトレスクで(古賀春江の絵画を連想させる)好きな詩。「象」はelephantを指すのだろうが、この字はまたfigureやimageの意も併せ持つ。

広瀬川
広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちいさき魚は眼にもとまらず。
(『純情小曲集』)

故郷を詠った詩編の中では、この「広瀬川」がいちばんお気に入り。最後の一行がいい。

「古風な博覧会」
かなしく ぼんやりとした光線のさすところで
円頂塔(どうむ)の上に円頂塔(どうむ)が重なり
それが遠い山脈の方まで続いてゐるではないか。
なんたるさびしげな青空だらう。
透き通つた硝子張りの虚空の下で
あまたのふしぎなる建築が格闘し
建築の腕と腕とが組み合つてゐる。
このしづかなる博覧会の景色の中を
かしこに遠く 正門を過ぎて人人の影は空にちらばふ。
なんたる夢のやうな群衆だらう。
そこでは文明のふしぎなる幻燈機械や
天体旅行の奇妙なる見世物をのぞき歩く
さうして西暦千八百十年頃の仏国巴里市を見せるパノラマ館の裏口から
人の知らない秘密の抜け穴「時」の体内へもぐり込んだ。
ああ この消亡をだれが知るか?
円頂塔(どうむ)の上に円頂塔(どうむ)が重なり
無限にはるかなる地平の空で
日ざしは悲しげにただよつてゐる。
(『桃李の道』)

「幻燈機械」という装置、空を漂うというモティーフ(この詩集には、「風船乗りの夢」という一篇も収められている)。
幻想の中のパリ。

「群衆の中を求めて歩く」
私はいつも都会をもとめる
都会のにぎやかな群衆の中に居ることをもとめる
群衆はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲のぐるうぷだ。
[中略]
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
[後略]
(『青猫』)

露骨にボードレール的。