Giordano Bruno and the Hermetic Traditionのためのメモ

以下の引用はすべてこちらの書より。

イタリア・ルネサンスの霊魂論―フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ

イタリア・ルネサンスの霊魂論―フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ

「表象」(Yates:representation)概念について

フィチーノの霊魂不滅説を考える時[…]他方で、アリストテレスの用語に育まれた中世哲学とフィチーノ思想とのつながりを確認しておかなければならない。
[…]
アリストテレスはここで知覚と思惟とは別に、表象(想像。パンタシア)を取り上げ、表象は感覚なしには生じないとする一方で、感覚とは別個な思惟は一面にこの表象を含むという。表象とはなにか。それは、これによってわれわれに心像(表象像。パンタスマ)の生じるものであり、またこれによってわれわれが正しくあるいは誤って判断するところのある能力か、あるいは状態のうちのひとつであるか、である。アリストテレスはそれが感覚とは異なることを例示する。「感覚は可能態か現実態かである、例えば視覚か、視活動かであるが、しかしこれらのどちらも存しなくとも、なにか心像が現われる、たとえば睡眠中の心像のように。第二に感覚は常に現在する、しかし表象はそうではない」云々と。
ちなみにパンタスマは『プラトン神学』[フィチーノの著作]の重要概念でもあり、同じく重要用語、スピリトゥスと深い関係がある。スピリトゥスはアリストテレスにあってはプネウマ(気息)と呼ばれ、霊魂と身体をつなぐ物質的媒体のことであり、霊魂の働きを考えるときに不可欠なものである。アリストテレスの生物的著作では、霊魂が心臓と密接に結合されて考察されているから、プネウマとの関連も明白であろう。なぜなら、プネウマは心臓から抽出されたのであり、フィチーノも次のように考えている。霊魂は直接、粗大な身体とつながっているのではなく、その間にはきわめて精妙なスピリトゥスと呼ばれる媒体が存在する。このスピリトゥスは熱い心臓より血液のもっとも良質な部分から生まれて、体全体に広がっている、と。これにより感覚作用との関連は明白である。医学用語でもあるがゆえに、スピリトゥスはフィチーノの『三重の生』(De triplici vita)でも重要な意義をになっている。
(根占献一「マルリシオ・フィチーノ」30−31ページ。)

「ヌース」(Nous)について

[アリストテレスにとっての]ヌースは、霊魂の諸能力のうち、人間にのみ見られる最高の能力であり、推理や思惟の能力を意味する。[…]ヌースは肉体から独立可能で、形相を受容し、すべてを思惟できるものである。ところがアリストテレスは、このヌースを能動知性(能動理性)として不滅で永遠であるとするのに対し、感覚に基づくヌースの働きを受動知性(受動理性)と呼び、身体からの制約を受け、身体が死滅すれば消滅を免れえない、と述べる。[…]能動知性は非受受動的なものであることから記憶することがなく、その働きは受動知性にあり、この受動知性なしには、なにものをも能動知性は思惟するとがないとされる。そうであれば、能動知性の不死はなんともあやふやこの上もないと言わざるをえない。
[…]
トマス[アクィナスは『知性単一論』において]知性の不滅性を認め、しかも知性が個々の人間に属し、個別性を持つと[知性の個別性を否定するアヴェロエス理論に対し]反論した。キリスト教徒トマスは、人間の霊魂がその死後、各自、最後の審判を受けることを当然視するため、意識的精神のみならず、知性も死滅的でないことを要請する。
(上掲論文、33−35ページ。)