群島

カッチャーリ総括、続き。
以下引用部分の出典はすべて、「マッシモ・カッチャーリに聞く アナロジーの論理学」『批評空間』第3期第4号、2002、59〓71頁より。

ここ数十年間に、アナロジーの理論的問題がわたしにとって最重要になってきました。それは、対立(coincidentia oppositorum)、対立なき区別(distinzione senza opposizione)、分離なき区別(Scheidung ohne Trennung)のテーマです。それはまた、「群島」のテーマであり、「空」と「色」との間の差異のテーマです。

  • 記憶について

過去は生きています。過去はわれわれが好きなときに引き出しからカタログのように選び出すのではなく、むしろカタログの方が勝手に出てくるのです。ですからカタログとは言えないのです。

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アエネーイスがハーデス(黄泉の国)への旅を始めたとき、ハーデスへのアクセスは易しいが、そこから帰るのは難しいと忠告されます。死人と会い過去を見るためのアクセスは簡単で、そこから戻るのは大変に難しいのです。

偶発的に、向こうから立ち現れてくる過去への旅から、「帰還」することは容易ではない。
このカッチャーリの言を目にして思い浮かんだのは、やはりヴェネツィア出身である建築理論家、マンフレッド・タフーリの次のような言明である。

旅においては、探求のアヴァンチュールは、トータルなものとなるには、限界というものをもってはならず、従って旅は無限に引き伸ばされているのであり、つまりそこからは引きかえしてはならないのだということが意識されていることが必要である。 […]実際、その本性として、旅は心的な「モンタージュ」を誘発する。つまり、いったん「帰還」すれば旅の間のことは「挑戦された」ものとして残ることになるのだが、時間と空間とが「問題」として個別化されてしまうなら、いったん旅が始められると帰還はもはや可能ではなくなってしまう。

(タフーリ『球と迷宮』パルコ出版、1992、68―69頁.)

極めて分かり難い文章である。タフーリのこの書を最初に手にしてから2年ほどが経つが、正直、未だにこの部分の意味が掴めない。しかし、帰還の困難さ、あるいは不可能性という点で――もちろん、「不可能であること」と「困難であること」との間には、大きな断絶があるのだが――この二人の論者は、もしかしたら通底する問題を扱っているのかもしれない。