「夜晩く鏡を覗くのは時によっては非常に怖ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人の顔のように見えて来たり、眼が疲れてくる故か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽の腫れ面という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あぶり出しのようにまた現れたりする。片方の眼だけが出て来て暫くの間それに睨まれていることもある。・・・」
梶井基次郎「泥濘」所収『檸檬新潮文庫,2000,p57)

「ひとりっきりで寝台車の一室にいた時、汽車が激しくゆれたさいに、隣の洗面所に通ずるドアが開いて、飛行帽をかぶり、寝間着をきた一人の老人が私の室へ入ってきた。[・・・]が、まもなく、その闖入者が実はドアのガラスにうつった私自身の姿であることを知って呆然とした。私はいまでも、この現象が非常に不愉快なものであったことを覚えている。[・・・]しかし、そのさい感じた不愉快さは、ドッペルゲンゲルを無気味なものと感ずる、あの原始的反動の残滓だったのではあるまいか。
(S.フロイト「無気味なもの」1919,所収『フロイト著作集第三巻』人文書院,1969,p353.)

鏡像、二重自我(自己の他者性)、見つめ返される眼。

あるいは、ヴィクトール・ブラウネル(Victor Brauner,1903-1966)による無気味な自画像。(自画像とは自己の鏡像を見つめつつ描かれるものであることを、記銘すべきである。)