化粧 (トラヴェルス)

化粧 (トラヴェルス)

こちらの書に収められた、ジャン=クロード・レーベンシュテイン(浜名優美訳)「ビューティー・パーラーにて」(129-173ページ)より。

そして首、赤い手、汚い爪が示しているおしろい、それは皮膚のなかに溶け込もうとするが、ほとんど不器用に、皮膚からはがれ、それこそ画家の技法の見せどころである。なぜならけっきょくこの二つの皮膚はどちらでもなく、第三の皮膚で、画布に塗りつけられた絵の具の薄膜だからである。そしてたぶん類似のやり方で、ひと塗りまたひと塗りと、皮膚には乳色の塗りが行なわれ、頬に塗られた赤にはいっそう鮮やかなバラ色のグラッシが塗られたのである。
(134ページ)

模倣の歴史をとおして、絵画は一つの化粧術であるが、化粧術は絵画の恥部であり、表現の次元における悪しき物質性であるということが繰り返される。ちょうど社会の次元では、おしろいは人間の動物的物質性を隠すが、おしろいを塗ることで隠すことを裏切っている人間の動物的物質性――肉、管、腺、歯――が悪しき物質性であることがあるのと同じである。テュアナのアポロニウスの求めに応じて、そこでは絵画は「どういうことをするか」を言おうと努めながら、素朴なダミスは物質的な定義から始める。そこでは絵画は化粧と同一視されている。
(135ページ)

この論考の最後は、デリダが『撒種』で述べるファルマコンの概念――生者の外観のもとに死者を隠蔽する白粉の魔術――に触れて終わる。