A [DVD]

A [DVD]

最近またカルトや自己啓発セミナーに絡んだニュースが話題になるのを見聞きして、ふと「そう言えばオウムって何だったのだろう」と考え、そんな折に本作をたまたまレンタルショップで見つけたので、借りてみた次第。
本作は1996年の一年間、当時広報副部長だった荒木浩氏に密着取材したドキュメンタリー。カルトとは「危険でヤバい」ものであり、その信者も完全に「あちら側」に行ってしまった人たち、などという単純な二元論を、突き崩す作品である。ここでは、報道によって私たちがよく知っているはずのオウムの姿は、「引用」(テレビ画面や新聞見出し)や「残骸」(潰れた尊師マスク、剥げ掛けた選挙ポスター)としてしか映し出されない。手ぶれの激しいヴィデオカメラが捉えるのは、「絶対悪」たるテロリスト集団の一員でも、ヘッドギアや薬物使用などのエキセントリックな修業によって「洗脳」されてしまった異常者でもない。誠実で心優しく、聡明だが弱さを隠しきれない一人の青年が、巨大なうねりに飲み込まれ苦悩しつつも、与えられた職務を全うすべく奮闘する姿である。
地下鉄サリン事件発生後、調査が進み公判が開かれ、事件の全容が明らかになっていくにも関わらず、それでも「尊師」の教えを信じ、教団に留まる人たち。カメラに向かって、自分の信仰や出家の動機を語る彼らの口ぶりは、驚くほど理性的だ。背景に写る教団施設の室内は、教祖のポスターや殴り書きの標語がベタベタと貼られ、壁や床はひどく不衛生で、「意外にまとも」な人物たちと「予想通り異常」な風景とのコントラストに、頭が混乱する。
本作は徹底して荒木氏に寄り添って作られており、観る者は次第に、この頼りなげな童顔の青年へと感情移入している自分に気付かされる。それゆえに、我先に強引な取材を試みる取材陣の無神経さ、信者を不当逮捕に持ち込む警察の恣意性、オウムを「絶対悪」として罵るメディア報道や近隣住民のヒステリックさが際立つ。「こちら側」にいるはずの私たちもまた、事実を片面からしか捉えられないでいるし、ある種の幻想に「洗脳」されているとすら言える。サリン事件実行犯たちのなした供述を耳にしてさえ、未だに「尊師の教え」が真理であり救済であると信じ続ける信者たちは、一種の色付きガラスを通して世界を認知しているのだろうが、それは結局、私たちも同じことなのだ。
入信の動機を問われて「修業のシステムがいちばん優れていたから」と理性的に答える荒木氏は、サリン事件の実在と教祖の関与を否定できない事実として突きつけられたとき、涙ぐむ。私が彼らに対して抱いていた疑問の一つは、「なぜあれだけの事件を起こしたカルトに、それでも留まり続けているのか?」ということであった。悩み惑う自分を救ってくれた(と信じている)存在、自分にとっての「真実」、人生を掛けた決断、信者として過ごした決して短くはない時間、そういったものを全て否定し、自分の間違いを引き受けることができないからだろうか。しかし、カルト信者に関わらず、大抵の人間の「認知の仕組」は、そのように出来ているのではないだろうか。自分の属する集団や組織内でのみ通用する理屈に染まり、いつの間にかその偏りや異常さに鈍感になっていくというのも、程度の差はあれ「部分社会」ならどこにでも見られる現象である。オウム信者などという「あちら側」に行ってしまった人たちと、一応は安全圏に留まっているはずの私(たち)、その分水嶺はいったいどこにあったのだろう(あるいは分水嶺など存在するのだろうか)と、しばらく考え込んでしまった。本作に頻出する、オウム施設の室内から汚れた窓越しに街路を映し出すショットは、「こちら」と「あちら」の世界の関係性――皮膜一枚で隔てられているにも関わらず、ひどく遠い――を象徴しているようにも思える。