TOKYO!』監督ミシェル・ゴンドリーレオス・カラックスポン・ジュノ
http://www.tokyo-movie.jp/
3編のオムニバス映画。「東京」という舞台装置は勿論だけれど、上手く歩けない身体という点でも3作品が繋がっていたところが面白い。ただ、どの作品も「コンセプチュアルさ」を狙い過ぎている感があって、なんだかあざといという印象を持ってしまったのも事実。若手作家の勇み足のような雰囲気というか……(上にリンクを貼った日本語公式サイトは、さらに「トーキョー性」を狙い過ぎていて、ここまでくると勇み足というより単に踏み外している感じ。)
雨の日特有の、肌に纏わり付くような持ち重りのする空気、鉛色の空の下の黒々としたアスファルト、ビルと猥雑なネオンとやたらと広い交差点、夏の日の住宅街の、油を流したような陽の光と濃い匂いを放つ植物……東京という都市にまつわる、自分の中に身体化されているような記憶が、一気に呼び覚まされるような映像だった。映画には視覚情報と音声情報しかないはずなのに、そこに映し出されている空間の空気が、皮膚感覚として感じられるような錯覚に陥るから不思議だ。
日本映画の空間の独特の色合い(なんとなく不透明で重たげな)は、映像や視覚情報に対する感覚の特異性によるものなのかと思っていたが、フランス人や韓国人が撮ってもほぼ同じ色彩や明暗の調子となっていた。あれは日本の空気特有の色なのかもしれない。フランスでは空気が透明で、明暗も色彩も鮮やかに出ているような気がする。

レオス・カラックスの作品『Merde』に登場する奇妙な男の、緑の服と禿頭、せむしのような独特の体型からは、日本人としては「河童」を連想してしまう。マンホールという水陸の境界から、人間の住む日常空間に侵入してくるという点でも。
捕えられたこの男が裁判中に発する、「(日本人が嫌いなのは)目が女性器の形をしているから」という一言は、下らない猥褻発言のようでいて意外と深いようにも思える。(バルトの『記号の帝国』に、日本人の眼は裂け目である、というような一節があったような気がしたのだけれど、本が今手元にないので確認しようがない。)男は独特の奇声と身振りによって「世界中で3人しか理解できない」言語を操るので、司法手続きはかの言語の理解者でもあるフランス人弁護士と日仏通訳によって媒介されることになる。検察官の尋問場面で繰り広げられる翻訳手続きの迂遠さ。
画面中に登場する日本人たちは、筋肉が麻痺してしまったかのように無表情で、さらに何人かはマスクや眼帯で顔の一部を覆い隠している。護衛の警察官たちは直立したまま動かず、男と仏人弁護士の、何かの発作を起こしたかのような大袈裟な身振りばかりが誇張される。かつてのオウム真理教の修業場面や、夕方の民放ニュースに出てくるやたら神妙な表情の美形アナなど、「ありがちな日本」を徹底してステレオタイプ化し茶化している挿話が、皮肉な笑いを誘う。

エンディングロールをぼんやり眺めていたら、カラックスからの謝辞の部分にShigehiko HASUMIとPatrick DE VOSという名前があるのが目に飛び込んできて、思わず驚きの叫びを小さく上げてしまった。