若手研究者フォーラムのお知らせ

若手研究者によるフォーラム
第2回「イメージ(論)の臨界:ミュトスとロゴスの間」

日時 2008年3月1日(土)13:00より
場所 京都大学大学院人間・環境学研究科棟233号室
http://www.h.kyoto-u.ac.jp/access/
http://www.kyoto-u.ac.jp/access/kmap/buhin/yoshida_south1.gif
主催 科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」(代表:岡田温司
問い合わせ 京都大学岡田温司研究室075-753-6546

パネリスト
大橋完太郎(東京大学大学院嘱託助手)
森田團(東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」研究拠点形成特任研究員)
米田尚輝(東京大学大学院・国立新美術館研究補佐員)
上尾真道(名古屋芸術大学非常勤講師)
橋本梓(国立国際美術館研究補佐員)
寺田晋(大阪大学大学院・日本学術振興会特別研究員)

司会
柳澤田実(南山大学専任講師)

各発表タイトルと要旨

大橋完太郎(東京大学大学院嘱託助手)
「絵画の中を歩くことはいかにして可能か?――タブローを貫くディドロ唯物論について――」
 近代市民社会の成立を推進させた「革命」の数年前に、もう一つの密かな革命が進行していた。『化学命名法』(1787)におけるラヴォアジェの試みは、物質の様態からその歴史性が捨象された一つの画期的な瞬間を宣言している。物質はその機能と構造のみを問われる「科学的な」要素へと還元され、歴史と科学との間に「近代的な」分断が創設される。
 フランス革命を見ることなく没した哲学者ディドロ(1713-1784)の思考において、物質と歴史とは不可分なものとして考えられている。これを前近代的・前化学的な思考と捉えることは、前述した「近代性」に由来するある種の貧しさを証しているかもしれない。本発表では、物質の歴史と科学的性質とが交錯するこの自然史的な空間を例えば「タブロー」と名付けることによって、物質理論を芸術批評へと接続することを試みる。『サロン』に展示されたタブローの中を遊歩するディドロの姿は、単なる空想的記述ではない。ディドロはすべてに共通する物質性という基盤を掘り下げながらタブローへと踏み入ることで、異なる位相に属していたもののヴァーチュアルな相互性を具現化しようとしていたのではなかったか。唯物論的一元論の視座から絵画批評を貫いて解釈するこの手続きは、タブローに現れた神話的古代と物質の不変的性質という二つの「時間・物質」を統一的に捉える作業仮説を構築する試みでもある。

森田團(東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」研究拠点形成特任研究員)
「KYRIOLOGIE:クロイツァーの象徴神話論におけるイメージの問題」
フリードリヒ・クロイツァーの『古代民族、とりわけギリシア人における象徴と神話』(第二版1819-21)は、ロマン派神話学の代表作であり、それ以降のシンボルとミュトスの理論の基盤を提供してきた。この書物のシンボルとミュトスという基本対立――イメージと言語の対立がその根柢にある――に曖昧に関係する奇妙な概念がある。 Kyriologieである。クロイツァーは、アレクサンドレイアのクレメンスの用法などを参照しながら、この語をイメージないしは正確に再現された摸像を指す言葉として、また比喩的ではなく本来的な意味を保持するものに対して用いており、シンボルとの違いを強調することになる。発表では、広義でのイメージ表現に関わるシンボルとキュリオロギーの関係、さらにそれらがミュトスと結ぶ関係を明らかにすることによって、クロイツァーのテクストが潜在的に孕むイメージ一般への問いを浮き彫りにすることを試みたい。

米田尚輝(東京大学大学院・国立新美術館研究補佐員)
「作品の神話、装飾的なるもの──アロイス・リーグルを中心としたウィーン学派の方法」
アロイス・リーグルは『美術様式論──装飾史の基本問題』(1893)において、エジプト、ギリシア、ローマ、アラビアにいたる諸様式の自律的発展を容認することなく、「芸術意欲Kunstwollen」の概念とともにその歴史的連関に積極的な価値を見出した。また『末期ローマの美術工芸』(1901)では対象を建築、絵画、彫刻まで拡げつつ、様式の性格を没価値的な視覚形式としてローマ造形史を描き出す。そこでもなお、分析の対象に採り上げられるのは主として工芸であり、より正確に言えば、装飾を施された造形物である。触覚/視覚の二項対立が様式概念の形成原理として機能し、装飾模様を形式化するリーグルの手続きに賭けられているのは、「装飾的なるもの」の多様性に他ならないだろう。本発表では、ロゴスとミュトスの間にとどまり続ける表象として、美術工芸ないしは装飾芸術に理念的に付随するこの「装飾的なるもの」の諸相を分析したい。

上尾真道(名古屋芸術大学非常勤講師)
「経験と虚構の狭間におけるイメージ:精神分析における幻想概念の考察を通じて」
西洋思想の伝統において、イメージはアリストテレス以来、心と認識を巡る思索において常に重要なテーマとなってきた。19世紀に入り、学として心理学が形成された際にも無論この伝統は踏襲されている。さて20世紀に入り精神分析という治療実践の開始とともに、心についての新たな議論を提示することとなったフロイトは、こうした19世紀的なイメージの心理学を引き継ぎながらも、そこに語りと言語の問題を接続した。この接続はまずは、『ヒステリー研究』における、目の前に浮かぶイメージを言葉にすることで解消させようとする実践に始まりを見ることができるものだが、しかしこの実践を突き詰めたところで、フロイトは、経験と虚構の二つの身分の間で宙吊りとなるイメージの問いにぶつかることになる。フロイトが幻想Phantasieという用語とともに考察したこの問いについて我われも再考しながら、精神分析以降におけるイメージと言語の問題圏の射程を図るべく努めたい。

橋本梓(国立国際美術館研究補佐員)
ミノタウロスの戯れ――雑誌『ミノトール』における神話イメージの変奏」
1933年6月にパリで刊行された美術雑誌Minotaure(『ミノトール』)。シュルレアリスム・文学・民族学・考古学・心理学などに関するエッセイや写真資料がいびつに詰め込まれた、それ自体ひとつの「怪物」であるこの雑誌のシンボルとなるのが、牛頭人身の怪物ミノタウロスだ。アンドレ・マッソンやピカソらによってさまざまに描かれる怪物ミノタウロスは、「雑誌」というある種の共同体が成立させる神話の変奏曲ともいえる。本発表では、特にマッソンやピカソの描くミノタウロスおよび闘牛といったモチーフを参照しながら、雑誌『ミノトール』を中心とした「ミノタウロス」イメージの戯れを提示したい。

寺田晋(大阪大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
「活動写真と群衆」
 本報告では大正期の日本において活動写真をめぐって展開された議論を糸口に、同時期の日本社会に広く見出されるある傾向を析出したい。戦前の日本の支配体制において道徳の意義が強調され、それが強い拘束力をもったことに違いはないが、社会的近代化の進展は、たんに道徳を声高に唱えるだけでは対処できないさまざまな事態をもたらすということもたしかである。「群衆」の登場は、そうした緊急事態のひとつである。実に多くの言説が群衆という新たな存在に対処するために投入されたのであり、活動写真をめぐる議論にもその一端は見出される。活動写真は、さまざまな場面でコミュニケーションの管理を志向していく同時期の日本社会における焦点のひとつなのである。