ジョルジュ・プーレ『三つのロマン的神話学試論』金子博訳、審美社、1975年(原著:Georges Poulet, Trois essais de mythologie romantique, 1966.)
3章から形成される、テマティスムの手法による文学批評書。三番目に、「ピラネージとフランス・ロマン派の詩人たち」と題された章が収められている。そこで扱われているのは、トマス・ド・クインシー(『阿片吸引者の告白』)、ヴィクトル・ユゴー(『アルプスとピレネー』)、シャルル・ノディエ(『ピラネージ』)、ウィリアム・ベックフォード(『巨人の夢』、『夢、目覚めかけた思いと出来事』)、アルフレッド・ド・ミュッセ(『蝿』)、テオフィル・ゴーティエ(『パリから遠く』『イタリア紀行』)と言った文学者たちの、ピラネージに触れたテクストである。

今わたしが再現したいと思っているのは、ロマン主義時代の詩人たち全般にピラネージの版画の鳴響といったものがあるのだが、それが現代の読者にどのような精神的反響を呼び醒ましたかということである。(122ページ)

ピラネージ作品と言っても、本書で取り上げられている文学者たちのイメージのほとんどは、『牢獄』(ド・クインシーやそれを受けたミュッセなどは、一様にタイトルを『夢』としている。ド・クインシーにピラネージを紹介したコールリッジの誤解によるものらしい。)に基づくものだ。20世紀になってからのピラネージに関するエッセイも、『牢獄』に主眼を置いたものが多い(エイゼンシュテインユルスナール、フォークト=ゲクニル、タフーリら)。これは、ピラネージをいかに解釈するかというよりもむしろ、後代における受容態度の問題になってくるだろう。
ピラネージ作品と後代のテクストに現われ出たそのイメージを、プーレは「空間」と「時間」というテーマ系から分析している。その読解には、タフーリのピラネージ論(『球と迷宮』)と通底する部分も多い。(今ざっと見た限りでは、文中では言及していないようだが、タフーリはプーレを参照していたのかもしれない。)

奇妙な光景である。斜面も、斜面に刻まれた段々道も一層々々階を積み重ねたようになっていて、そこを登る人にその斜面の数だけ別々の思いを与える。これ[ヴィクトル・ユゴー「アルプスとピレネー」におけるピラネージ風の情景描写]は空間的というより時間的な風景なのだ。そこでは、絶えず断ち切れてはまた始まる、ある種の時間の特徴とも言うべき、とぎれとぎれの飛躍の連続が、盛上った大地にあらわに刻みつけられているのだ。
(130−131ページ)

ボードレールにおけるこの増殖現象[「七人の老人」]は、ドゥ・クインシが描いたものときわめて近い経験に基づいているのだ。それは、異なったものがいくつも断続して出てくるという経験とかかわるのではなく、ただ一つの形態が一連の時間ないしは空間上の点に再現する、そのような経験と関連した現象なのである。
(132ページ)

自己自身の無限の増殖は、すなわち責苦である。しかし本来、永遠に失敗の意識を伴うはずの責苦である。自己増殖とは、自己の姿を求めて決してそれと一つになることができない自己の像を、いたるところに投影することである。空間と時間は、単に自己増殖が行なわれる本来の場というだけではなく、増殖した自己が広大な時空のままに散らばっていることの深い理由として現われているのだ。増殖は分裂であり四散であり、もっと悪いことには、時空二重の拡がりのいかなる点に位置するにしても、人間存在と周囲の全体との間にどんな関係にせよ関係を樹てることができないということなのだ。
(137ページ)

ピラネージが絵で描いたものにしろ、コールリッジやドゥ・クインシが文章で描いたものにしろ、この人物をとくと眺めるとき、なによりも驚かされるのは、この人物が立っている場所の一つから一つへと移動することはほとんど不可能ということなのであって、彼が辿ることのできた途方もない道程を一本の繋がった線の形で表すことは困難なために、この道程にたくさんの隙間をあけざるをえないことになったのかとばかりに思われるのである。道を失った人は、ばらばらに千切れた世界のなかでばらばらになったかのようだ。
(138−139ページ)

ピラネージの階段のテーマは、ここで迷宮というより大きなテーマと結びつく。[中略]しかし、どれだけの距離をうまく乗り越えたとしても、結局は外に一歩も近づいていないことがわかるような、想像もできないほどの大きさの牢獄から逃れることは、さらにどんなにか難かしいことであろう。
(139ページ)

ちなみに、邦訳されているジョルジュ・プーレの著作には他に、『人間的時間の研究』などがある。