プーシキン美術館展東京都美術館、〜12月18日)
旧制ロシアの実業家モロゾフとシチューキンによる絵画コレクション(そのほとんどがフランス近代絵画)のエッセンスを抽出した展覧会。
写真パネルから伺える当時の展示手法が面白い。モロゾフ、シチューキンの両氏とも、自らのコレクションのほとんどを自宅に展示していた。この時代のブルジョワ階級特有の装飾的な室内において、その壁面の余白をことごとく埋め尽くそうとするかのように絵画作品が飾られているのだ。空間恐怖症的と言ってもよいくらいだ。しかしながら、シチューキン邸の「ピカソ・ルーム」だけは異なっている。装飾を極力配した白壁の空間に、ピカソの作品(当時はまだほとんど評価されていない状況にあったという)が整然と並べられている。ピカソのもつ強烈な視覚的衝撃性を和らげるための方策なのだろうが、今日的な「ホワイト・キューブ」の前身のようで興味深い。

この二つの個人コレクション成立の背景には、美術をめぐる制度の中で19世紀末から20世紀初頭にかけて生じた変化を見て取ることができるように思う。美術作品が「公共財」、美術品収集が「社会貢献」という性質を帯びるようになったこと。経済的成功を収めた個人において、ノブレス・オブリージュとしての「文化的活動」という概念が生まれたこと。作品購入の際の選択が、個人的な趣味判断と同時に(あるいはむしろそれ以上に)アートワールド(画商やアドヴァイザー)による評価に依存していることなどである。

王侯貴族による庇護でも、国家による文化行政でも、法人主体によるメセナ活動でもなく、経済的成功者たる一個人が芸術のパトロンとして機能しえた背景には、次元を異にする様々な要因が絡み合っているのだろう。

印象に残った作品をいくつか。

  • ルノアールムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で』:背景に溶け込んでいく人物の顔貌。他の画家とは違って、ルノアールの場合はその曖昧な顔貌がむしろ「柔らかさ」や「穏健さ」という印象を喚起するから不思議だ。
  • フォラン『パリ、オペラ座の舞踏会』:塗り潰されて輪郭を失う舞踏会の群衆。
  • ゴッホ刑務所の中庭』:ドレの版画の模写だというが、モノクロームの原画にいか色彩を付与したのであろうか?刑務所の中庭で展開する、囚人たちの光景。背後の壁には窓が三つ穿たれているが、その向こう側は見えない。輪になって行進する囚人たちの中央の男だけが、覚醒したかのように青白い顔を観者に向けている。閉鎖空間の中での彼らの円環運動は、永遠に終わらないような印象を受ける。
  • E.カリエール『母の接吻』:(今日の映像技法における)回想場面のようなソフトフォーカス、セピア色のモノトーン、人物たちの曖昧な顔貌と無表情さ、流れるような線を描く身体。どこか甘美メランコリーと無時間的なノスタルジアを感じさせる作品。
  • ボナール『洗面台の鏡』:カーテンのレース、洗面台の下に掛けられた布のドット、壁紙の花柄など、装飾模様に覆われた平面上に、額によって縁取られた鏡が口を開けている。そこにあるのは鏡のこちら側(=絵画平面のこちら側)の反映像なのだが、一見すると穿たれた窓の向こう側の空間のようにも、鏡の真上に飾られた小さな花の絵との関連から、一枚の絵画のようにも見える。
  • ヴュイヤール『室内』:装飾紋様に覆い尽くされた室内と、そこに閉じ込められた女性。後景に曖昧な輪郭線で描かれているのは、彼女の家族であろうか。
  • ドラン『水差しのある窓辺の静物』:三角形の閉鎖空間の左に窓を、右に壁龕を配するという奇妙な空間構成。
  • ピカソ『女王イザボー』:頭巾の襞の奇妙さ、服の表層にある紋様の平坦さが目を引く。衣服表現における襞や紋様が、キュビズム表現の中で不整合を起こしているのかもしれない。
  • マティス『金魚』:薄い絵具の層はほとんど水彩画のように見える。塗り残しの白い線によって、事物の輪郭線が強調される。色と色の間、余白としての線。