読了本

復活後のキリストが、自分に触れようとするマグダラのマリアを制して「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)」と言う、よく知られた一場面をめぐってこの論考は展開する。ナンシーが問題とするのは、絵画作品そのものを巡る美術史や図像学でも、神学上の諸理論でもなく、そこで絵画として表象されている「譬え」である。

ナンシーのテーマであるキリスト教脱構築の問題は、正直自分の手に余る問いだが、キリスト教のイメージ、さらに絵画というメディアそれ自体における「触」と「不可触」、「視覚」と「触覚」、「視」と「不可視」の諸問題についても、示唆を与えてくれる書である。
例えば、キリストの肉体である聖餅と葡萄酒を食するという行為、キリストの傷に触ってその肉体の復活を確認する聖トマスの逸話、あるいは信者がしばしば聖像に対して行なうくちづけ(例えばスペインのとある木彫聖像の足は、度重なる接吻のために黒光りしている)、イコンの祖形であるヴェロニカのハンカチーフ(物理的接触によってキリストの顔が転写される)や、キリストの身体痕跡である聖骸布。そしてとりわけ、キリストの足に髪で香油を塗布することで「触れた」マグダラが、キリスト復活に際しては(復活後のキリストを最初に「見る」という栄光に浴しつつも)接触を禁じられるという矛盾である。

復活した身体の存在と真理は、この[接触の]回避のなかに、すなわち、問題となるべき<触>がいかなるものなのか唯一示すことができる、この退引のなかにある。つまり、この身体に触れることなく、その永遠に触れること。身体の明白な現前に接触してしまうことなく、その現存を受け入れつつそこに至ること。そしてこの現存は復活した身体の出発にして識別(depart)に存する。
(上掲書、26ページ)