切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

切断の時代―20世紀におけるコラージュの美学と歴史

自分の研究にとって示唆になりそうな部分を抜き書き。
【鏡】

それでは、公衆の面前に初めて展示された[ホアン・]グリスのタブロー=コラージュに貼り付けられた鏡の破片に今一度目を向けたい。この反射する鏡の破片は、イメージの模倣の拒否と断片化の必然性を端的に表わしつつ、造形的な手段に関する議論がもはや避けて通れないことを示している。[…]小瓶のラベルは貼付ける代わりに模倣することもできただろうが、鏡は刻々と移り変わる現象を連続して映し出すものであって、その潜在的な可能性のすべてを再現することはできない。鏡に似せて描いたりしても、鏡が映し出す時の移り変わりまで表現することはできず、イメージは硬直したままである。グリスが挑戦したのは、こうしたイメージの硬直性に対してであり、造形的な手段をもって新たな時間性を表現することに成功した。[…]しかし表面が刻々と変わり、観者さえ映し出す鏡はどうすればよいのか。鏡の形で貼付けるしかない。
(38ページ)

【断片と文脈】

実際、現実から取り入れられた要素が、新たな芸術のコンテクストに挿入されることによって、元々の性質を失い、タブローを構成する一要素になるのではないかという問いを[ルイ・]アラゴンが発したことは一度もなかったのである。逆にクルト・シュヴィッタースは、この問題をコラージュについての理論的な考察の中心に据え、「オブジェは、相互に価値づけられることにより、それぞれ固有の性質、『固有の毒』を失って、脱物質化され、絵画のための素材となる」と書いている。[…]もっとも、素材の元々の性質が、その避けがたい物質的な重みと以前の記憶を喚起する力ゆえに、新たなコンテクストの中に完全に消え去ることはないという点において、シュヴィッタースの理論にも明らかな矛盾が見られる。しかしながら、アラゴンが、コラージュという新たな表現形式において、「断片を元のコンテクストに関連づけて読むことと、この同じ断片を、新たな別のまとまりの中に統合されたものとして読むことという、二つのレベルにおいて読むことの必要性を認識しなかったのは、理論的により重大な問題を抱えることとなった。
(52ページ)

【コラージュとインターテクスチュアリティ】

コラージュと呼ぶには、あるテクストが他のテクストの中に存在するというだけでは足りないのである。ここでコラージュにおける相互テクスト的な関係とは何かを明確にしておく必要があるだろう。すなわちコラージュの場合、(比喩的ではなく)文字通りの借用であり、意味的な切断によって生じた「相接面(interface)」が、唐突で際立った形で現れなければならないということである。[…]コラージュとして認められるのは、引用、剽窃と、広義の「書き直し」であるが、それも「分析的コラージュ」において、芸術家が自身の作品に「破壊」という形で立ち返る際に覚える痛みに近い、「意味論的な切り口」がある場合のみである。
(100ページ)

【漢字と映画】

エイゼンシュテインもまた、言語としての映画という理念に惹かれており、漢字の形成の過程に、モンタージュ操作の範例が図解されていると主張した。
(105ページ)

【不連続性と連続性】

アドルノは、正当にもモンタージュを、断絶と連続性の原理と、構成と連続性の原理という、二つの原理の変わり目に位置づけている。すなわち、モンタージュが「その要素そのものを(十分に)炸裂させない」ゆえに、一方から他方へとイデオロギーの地滑りが起こりうるのである。確かに、フォトモンタージュ一般やエルンストのシュルレアリスムのコラージュにおいて、要素そのものは炸裂していない。すでに存在する形象の輪郭に沿って切り抜くため、形態は多かれ少なかれ保持されており、断片化にも関わらず、「滑らかにするもの」が入り込む余地があるのである。モンタージュ/コラージュには二つの面があり、不連続性を肯定する影に連続性が隠されている。
(107ページ)

【引き剥がしdécoller】

コラージュの空間において、破壊的な身振りによって立ち現れる「切断」、「断片化」、「引き裂き」、「間」の問題は、とりわけ興味深い。[…]「décoller(引き剥がす)」という語は、このタイプのコラージュ[=街頭のポスターや広告を引き剥がしてコラージュ制作を行った、「アフィシスト」たちの作品]の制作における最初の行為を示している。
(197ページ)

→ここで筆者が問題にしているのは、直接作品を帰結させるような行為としての「引き剥がし(デコラージュ)」である。しかし、そもそもコラージュという作業の前段階には、ある特定の断片を本来の場所やコンテクストから「引き剥がす」ないしは「切断する」という契機が存在しているはずだ。
【コラージュと解剖学】
パウル・クレーによる《アフロディテの解剖学》というコラージュ作品(タブロー分割によって生成した断片を組替え、元の構図とは異なる作品へと再構成したもの)については、クロード・フロンティジィが、解剖学とこの作品特有の絵画的行為=切断・切開との並行関係を指摘している。(205ページ)
Claude FRONTISI, Klee: Anatomie d'Aphrodite: le polyptyque démenbré, Paris: Adam Biro, 1990.
【コラージュにおける統一性の偽装】

この展覧会[1995年開催の「パウル・クレー――分割のしるしの下に」展]には、分割された部分がそれぞれ独立した作品になったものと、分割してできた複数の断片を組み換えて再構成した作品(コラージュ)の双方が出品されたが、コラージュに関しては復元図がカタログに掲載されなかったため、クレーの作品の理解に重要な、破壊と構成の関係が見えにくくなったきらいがある。1995年の展覧会では、クレーが断片的な性格を隠蔽して「統一性を演出した」、分割された部分がそれぞれ独立するタイプの作品の方にむしろ焦点が当てられた。
(206ページ)

→「断片性の隠蔽」という契機は、ピラネージにも存在している。たとえば『古代ローマのカンプス・マルティウス』に収められた《イクノグラフィア》。そこでは、相異なる時代の建築物が「切り貼り」されているが、その接合面は滑らかであり、古代ローマの建築史に疎い人間には、あたかも特定の一時代を表わした、現実に忠実な「地図」であるように見えてしまう。
【タブローの切断】

こうして、前景の赤い地面の帯が空の上に「移動」したことにより、この水彩画[=パウル・クレー《モスクのあるハマメット》1914年]の空間の連続性は、ほとんど暴力的に否定されることになった。空はもはや無限に向かって開かれておらず、地面によって縁取られ、閉じ込められている。こうした操作によって、色彩それ自体の価値が高められ、平面性が強調される。このように、切断という最初の段階では破壊的な身振りに訴えることによって、この作品は、モティーフや自然から離れて自律性を獲得し、自らのうちに閉じるのである。
(210ページ)

→c.f.19世紀の画家たちによる「タブローの切断」。マネ、モネ、ファンタン=ラトゥールら。
【断絶性の隠蔽工作

シュルレアリスムのコラージュを代表するマックス・エルンストは、クレーとは異なり、コラージュの継ぎ目や切れ目を隠蔽しようとするのが常だった。そのためにエルンストは、元のコラージュを写真で複製し、複合的なイメージの継ぎ目を消し去ったのである。しかしながら、(エルンストに劣らず)マティエールに敏感であったクレーは、紙を重ね合わせることによって生じる微妙な影とともに、コラージュに固有な触覚的な物質性を犠牲にすることはできなかった。
(245ページ)

【捲れと影】

ロダンは[…]女性像を切り抜き、二人の女性像を重ね合わせてカップルを作る。二枚の紙片が、台紙の上に完全に貼り付けられるのではなく、軽く重ね合わせられることによって、微細な影の戯れが生じる。[ロダン《運命の輪のそばに横たわるレズビアンカップル》パリ・ロダン美術館蔵]
(251ページ)

→c.f.ジュール・アルドゥアン=マンサールによるリヨンのベルクール広場図面(Archives municipales de Lyon, 1S113)。パピエ・コレとしての建築図面。
【接ぎ木】

(取り込まれたテクストは)それらの再-書き込みの操作と、それらの接ぎ木によってのみ、それ自体として読まれることができる。それは、テクストの厚みの中では見えない切開の執拗で控えめな暴力であり、他から来た異物を増殖させる、計算された受精によって、二つのテクストが変容されたり、互いに変形したり、(…)一つのテクストを他のテクストの中に省略しながら移したり、縫合(sujet)の縁に沿って、反復を通して再生したりするのである。
(J.Derrida, La dissémination, Paris:Le Seuil, 1972, p.395からの引用、297-298ページ)

【自律的な断片】

エルンスト・ベーラーは、[…]「ミニチュア化された全体性」としての「断片」と、思考のより大きな文脈に開かれた「生成する断片」の二つを区別した。
(302ページ)

→c.f.絵画における「ディテール」(映画における「クロース・アップ」もか?)。一部分を切り出した断片のはずのものが、一種の完結性を獲得してしまう。(矢代幸雄による「部分図」のテーマにも繋がる?)
【コラージュの支持体】

私たちは、中央と端の入れ換え、ずらし、散種ないしは接ぎ木、置き換えといった、コラージュに相対的な統一性をもたらしながらも、またそうした統一性を揺るがす様々な空間操作を詳細に検討してきた。また、わずかに垣間見えるだけだが、それだけ一層多くを語るコラージュの「下部構造」にもとりわけ光を当てた。それは、コラージュに特有な「間=空間化」であり、台紙をそのまま剥き出しにすることによって挿入された「間」であったり、地をなでるような光の下で、隣同士に貼り付けられた紙片の端に浮かび上がる、蝶番のような影であったりする。しかしながら、こうした分析を通して、一見して見えにくいものの、看過できない別の次元も浮かび上がってくる。それは、分析的コラージュの「時間性」である。
(360-361ページ)

【コラージュ生成における時間性】

今まで言及した四つの時間性[伝記的・歴史的時間、有機的に展開する芸術創造の時間、コラージュやテクストの反転する時間(temps renversé)、習作としてのコラージュという前段階としての時間]は、「分析的コラージュ」の空間において、交錯し、重なり合っている。「破壊的-創造的」プロセスを通底する複雑な時間性は、作品に(空間的ではないにせよ)厚みを与える。こうして、しばしば痛ましくもある世界の断片的なヴィジョンを抱いていた芸術家たちは、いわば複層的な時間の中に、ばらばらな要素をからくも結びつける統一的な力を逆説的に見出したのである。
(364ページ)

【コラージュの中の文字】

シュヴィッタースのコラージュに導入された言葉(ルビ:エクリチュール)は、断片化され、明確なメッセージをなさない。こうして断片化された言葉は、何かを意味するというより、むしろ造形的要素としてコラージュ全体の構造に従って配置される。
(386ページ)

【不可視化された創造プロセスを語るテクスト】

メルツバウについてのテクストの重要性は、描写のみにあるのではない。これらのテクストは、メルツバウに欠かせない構成要素であり、造形表現と文学表現の間を楽々と行き来する、シュヴィッタースの芸術創造のれっきとした一部である。[…]これらのテクストの存在理由は、メルツバウの創造プロセスそのものにある。[…]メルツバウは「原理として」未完成であり、常に「消去」と「出現」、「自己破壊」と「自己創造」とが交互に現れるプロセスによって生長を続ける。[…]メルツバウの創造プロセスは、いくつかの部分を覆い隠し、「消去」することを前提としていると言える。こうしたパースペクティヴから見るならば、テクストがその代わりに、メルツバウの曲がりくねった層を発掘するのである。「考古学としての言説」が、これらのテクストの第二の機能である。それは、具体的であると同時に想像上の、解体された都市の考古学である。こうして、メルツバウの創造プロセス自体が言説を要請するために、シュヴィッタースは、自身の制作を記録し書きとめたのだった。このように、「綜合芸術作品」としてのメルツバウは、言説なしには存在し得ないのである。
(487ページ)

【表面を転写すること】

ラウシェンバーグは、この挿絵のシリーズにおいて、溶剤を用いてイメージを転写する技法を開発している。それは、雑誌や新聞の印刷された面に溶剤を塗り、この面を別の紙に押し付けて、(左右逆の)イメージが写し出されるまで、芯のないボールペンで擦るというものである。
(507ページ)

【コラージュとしてのテクスト】

この[ダンテの『神曲』をモティーフにしたロバート・ラウシェンバーグの作品]ように他文化から取り入れた断片を衝突させつつ、普遍的な叙述の構造を取り込むことによって、グローバルな作品を創造しようとする似たような試みは、エズラ・パウンドの『キャントウズ』やT.S.エリオットの『荒地』にも見られる。文学の分野におけるこの二人の詩人の試みは、後年の造形分野における試みとはもちろんかなり異なるものの、ラウシェンバーグの場合と同様、コラージュの原理に基づいている。これらの詩的な作品においては、多様な時代、多様な文化、多様な言語から取られた要素を基にして、巨大な文学コラージュが形成されていく。ここでは、「すべて」がぶつかり合い、要素から要素へと移行することなく、唐突な仕方で続くのである。またここには、フリードリヒ・シュレーゲルの「普遍文学」のはるかなこだまも聞こえる。
(514-515ページ)

【折り畳み】

この作品[1987年のタバスコ・グラット]でラウシェンバーグは、金属という硬質な素材のおかげで、様々な面を糊で貼り付けることなしに支えられる、潜在的なコラージュとも言うべき「折り畳み」の構造を作り出した。
(537ページ)