六本木でほぼ同時期に開催されている、「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime」展(国立新美術館)と、「塩田千春展:魂がふるえる」(森美術館)へ。

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クリスチャン・ボルタンスキーは、初期の「クリスチャン・Cの衣服」や「モニュメント」シリーズ、の、偽装された痕跡から非在の過去や不在の肉体が想起される作品、それからベルリンの《失われた家》やパリのユダヤ歴史博物館から見える《1939年のサン・テニャン館の住人たち》のような、抹消されたユダヤ人の死者たちの記憶を扱った作品はなんとなく好きで、ディジョンに留学していた2008年には、片道2時間以上を掛けてクリュニーで開催された「Question/Réponse」展にも出掛けたくらいなのだが(そのときのブログ:https://baby-alone.hatenablog.com/entry/20080921/p1)、その後の活動はあまりフォローできておらず、2016年に庭園美術館で開催された展覧会にも、慌ただしくて足を運べないままだった。

今回の展覧会については、「来世」と書かれた紫色の(正確には赤と青の電球が交互に配された)ネオンサインの作品の写真を事前にTwitterで目にし、「ボルタンスキーはいったいどうしてしまったのだろう? いや実は昔からこういう人だったのか……?」といぶかりながら出掛けた次第である。

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1970年代から近年までの作品を通して観ることで浮かび上がってきたのは、ボルタンスキーの作品を貫くのは、ある種の表層的な――「浅薄」という意味ではなく、「写真」や「顔」や誰かが着古し脱いだ後の衣服に関わるような意味で「表層的」な――フェイク性なのではないかということだ。実在する人物の「痕跡」や「残存」と見せかけたオブジェが、実は偽造であるという作品群。あえて顔貌をぼやけさせた古い写真が、ボルタンスキーの出自にまつわる知識や、ホロコースト関連資料としてよく知られた写真群への連想と結びつき、見る者のなかに――歴史的な事実とは異なるにもかかわらず――「ホロコーストで落命したユダヤ人」のイメージを喚起させてしまうというメカニズム。ファンタスマゴリア、あるいは走馬灯めいた影絵のインスタレーション。初期の「モニュメント」シリーズでは、無色の裸電球と錆びの浮いたミニマルなデザインのビスケット缶という、こう言ってよければインダストリアル・ヴィンテージ系のインテリアに登場しそうな、「分かりやすく趣味の良い」モティーフが使われていて、それもある時期のボルタンスキー作品に独特の詩的な雰囲気を醸成していたように思う。その電球を青や赤、その混合色としての紫といった、いわば平成初期のパチンコ屋のような色合いに変えただけで、「来世」も「arrivée/départ」も「外套」も、途端に妙に俗悪でキッチュな印象になってしまう。

ボルタンスキーの扱うテーマは、死者や死のイメージという点ではもちろん一貫しているのだが、そのなかでも「不在/非在の死者の痕跡・残存」から「死者たちの領国」へと遷移しつつあるように思われた。

【追記】この展覧会の図録に収められた杉本博司との対談で、目に留まったボルタンスキーの発言を引いておく(批判的にみるならば、一般的なボルタンスキー理解を上書きするような性質のものであるが)。

ボルタンスキー:私は幽霊を信じています。私たちの周りには霊がいっぱいいると思います。(109ページ)

ボルタンスキー:写真の話が出たので、ここで私の作品における写真の意味について補足しましょう。私にとって、誰かの写真、古着、あるいは死体は全て同じ意味を持っています。何故ならそれらは失われた主体と関係を持つ物だからです。[…]名前も、心臓の鼓動も同じです。それぞれは誰かがいたことを意味しているのです。集団について語るのではなく、一人の個人、もう一人の個人、さらにもう一人といったように、一人ひとりについて語ることがとても重要なのです。(109-110ページ)

 ☆☆☆

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 塩田千春《不確かな旅》CC BY NC ND

塩田千春は、履き古された靴に赤い糸を張ったインスタレーション(2008年国立国際美術館の「精神の呼吸」展、今回は出展されていない)の写真を目にしたときから、ぜひ展示を観たいと思っていた作家。赤い糸を張り巡らせた作品の印象的な――いまどきの語彙で言ってしまえばインスタジェニックな――写真を見て想像していたのは、「体内の血管組織を外在化したような、不定形でもやもやした糸の絡まり合い」というイメージだったのだが、実際には毛糸どうしはかなり強いテンションで組み合わされ、ピンとまっすぐに伸びている。それは血管とも体内組織とも、蜘蛛の巣や蚕の繭とも、一見似ているようで異なっているように見える。会場で最初に展示されているのは、両手の上に細い針金の絡み合ったモティーフの載った彫刻作品(《手の中に》2017年)なのだが、糸もまた、ふわふわと柔らかく軽い物質というよりも、この針金と同じような、つまり短い直線どうしが絡まりあって空間を作り出すためのメディウムとして存在しているように思われた。

船をかたどったオブジェから赤い糸が伸びて展示室全体を覆い尽くす《不確かな旅》、黒焦げになったグランドピアノと観客たちの椅子(つまりすでに機能を失った事物)に、漆黒の糸が絡みつき覆い尽くす《静けさのなかで》、再開発の進むベルリンで廃棄された窓を集めた《内と外》、赤い糸で吊るされた古い旅行用トランクが揺れ動く(ところどころに赤い糸に電動モーターの仕組まれているトランクがあり、その動きが近隣のトランクにも伝わってゆく)《集積:目的地を求めて》といったインスタレーションの他、自身の身体を用いたパフォーマンスの映像もあり、塩田の作品に通底する「私の身体」というテーマとそのヴァリエーションを一覧することができた。塩田はマリーナ・アブラモヴィッチレベッカ・ホルンにも師事していたことがあるというが、確かに初期の身体パフォーマンスは「私の身体の痛み」のようなものをテーマにしているという点でアブラモヴィッチ的とも言えるし、いくつかのインスタレーション作品については、ホルンとの共通点を切り口として考察できそうである。

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塩田千春《静けさのなかで》CC BY NC ND

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 塩田千春《時空の反射》、《内と外》、《集積:目的地を求めて》CC BY NC ND

塩田千春展については、某批評家による「リストカットを見せられているよう」というTwitter投稿が少し前にちょっとした議論になっていた。パーソナルな問いが作品に反映されているところと、「私の身体/私の身体の痛み/私の身体に対する痛めつけ」がテーマとなった作品が多いことの連想なのだろうが、「リストカット=表層を傷つける、皮膚的な痛みの感覚」というのは、塩田の作品に対する規定としては微妙にずれているような気がする(それは微妙なずれなので、明確に言語化するのは難しいのだが)。また、一般論として、「私の身体、その痛みや違和感、和解のできなさ」といったものをテーマにした芸術作品が「リストカット的」と言うならば、ある時期以降のとりわけ女性アーティストによる作品はほとんどが「リストカット的」であろうし(例えばアブラモヴィッチやアナ・メンディエタの1970年代のパフォーマンス、小野洋子のカッティング・ピース、石内都による「傷」がモティーフの写真……一々探し出していたら枚挙にいとまがないだろう)、ウィーン・アクショニズムなどはリアルリストカットをやっていたのだし、そもそもリストカット的であるという規定と作品に対する低評価とは必ずしも結びつかないはずである。ただのTwitter炎上であれば、わざわざ取り上げるに値しないかもしれないが、こと塩田千春に関しては、「一見して即断すると「リストカット的」な表現に思えるが、実は微妙に異なるのではないか」という部分が、彼女の作品を思考するうえでの賭金なのではないかという気もする。すぐに思い浮かぶのは、「外部からの暴力(特定の社会において女性であること、病に対する医療的措置……)に抗して、あるいは逃れて、自らの身体を確認すること」、「外在化された皮膚」、「(安部公房の短編『赤い繭』を連想させるような)身体から解けて、身体の外部の空間に形成された、もう一つの身体」、「裏返しにされた身体」といったフレーズだが、塩田自身が「作者の言葉」として「皮膚」(第二の皮膚としての衣服、第三の皮膚としての居住空間)や「心と身体の乖離」ということを発言している以上、批評や研究がそれを再確認しても仕方がないのではないか、という気がする。

それはともかく、鮮烈な赤や焼け焦げた炭のような漆黒の糸が、オブジェから立ち昇り、あるいはオブジェに絡み付きながら、空間に張り巡らされ、空間を創り出していく様は、そのなかに身を置いて体験すると、なにか圧倒的なものがあった。

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塩田千春《小さな記憶をつなげて》CC BY NC ND