近代都市、群衆、遊歩、ボードレール

ボードレール批評〈2〉美術批評2・音楽批評 (ちくま学芸文庫)

ボードレール批評〈2〉美術批評2・音楽批評 (ちくま学芸文庫)

ボードレールエドガー・アラン・ポー「群集の人(The Man of the Crowd)」(1840年)の主人公の男に見られるような「好奇心」に、現代の芸術家の「天才」を見出す(そしてさらに、同時代の理想の芸術家のあり方を「(病からの)恢復期」「子供」「ダンディ」に求めてゆく)。

あなた方は、当代の最も強力な筆によって書かれた、「群衆の人」という題のタブロー(本当に、これは一枚のタブローだ!)を覚えておられるだろうか? とあるカフェの窓ガラスの後で、一人の恢復期の男が、群衆を眺めながら快感を味わっており、自分の周囲にうごめくすべての思念に、思念によって立ちまじる。死の暗影から抜け出てきたばかりのこの男は、生のあらゆる萌芽、あらゆる放散物を、歓喜をもって吸い込む。今にも一切を忘れ去ろうという境にいたものだから、今度は一切を思い出し、また思い出そうと熱烈に欲する。ついには、ある見知らぬ男の面相を一瞬のあいだ垣間見ただけで、すっかり心を奪われ、その男を探しにこの群衆をかき分けて突き進んでゆく。好奇心が、宿命的な、抗[ルビ:さから]い難い情熱となったのだ!
シャルル・ボードレール「現代生活の画家」、『ボードレール批評2』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1999年、160-161ページ。)

群衆が彼[現代の芸術家]の領分であることは、空気が鳥の領分、水が魚の領分であるのと同じだ。彼の情熱と彼の職務、それは群衆と結婚する[太字部分は原文では傍点]ことだ。完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、涯しもない歓楽である。わが家の外にいて、しかも、どこにいてもわが家の気持ちでいること。世界を見ながら、世界の中心にいながら、世界に対して身を隠したままでいること、こうしたところが、これら独立不羈で、情熱的で、公平な精神たちの最もささやかな快楽のいくつかであるが、これは口舌をもってしては不器用にしか定義できない。[…]かくして普遍的な生を愛する者は、電流の巨大な貯蔵器に入って行くかのごとくに、群衆の中へと入って行く。この人をまた、相手の群衆と同じほど巨大な鏡になぞらえることもできる。また、意識をそなえたカレイドスコープ、ひと動きごとに、多面的なる生を、生のあらゆる要素の動的な魅力を表象するようなカレイドスコープにも。これは、飽くことなく非我をもとめる自我であって、この自我は、各瞬間ごとに、非我を、いつも不安定でうつろい易い生そのものより一段と生気ある影像[ルビ:イマージュ]にして、再現し、表現する。
(上掲書、163-164ページ。)


ベンヤミン・コレクション〈4〉批評の瞬間 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈4〉批評の瞬間 (ちくま学芸文庫)

[19世紀の]生理学もののこうした叙述ののんびりした調子は、アスファルトの上で植物を採集して歩く遊歩者[ルビ:フラヌール]の挙措[ルビ:ハビトゥス]に相応する。しかし当時すでに、街中どこでもぶらぶら歩き回るというわけにはいかなかった。オスマンの登場以前、広い歩道はめったになかった。狭い歩道は、交通機関から人をほとんど守っていなかった。パサージュが存在しなかったら、遊歩[ルビ:フラヌリー]があれほど意義深いものとなることはまずありえなかっただろう。1852年のイラスト入りパリ案内書は書いている。「パサージュは、産業による贅沢が近ごろ発明したもののひとつであるが[…]その結果そういうひとつのパサージュは、ひとつの都市、いやそれどころかひとつの世界の縮図である」。この世界を遊歩者はわが家とする。
ヴァルター・ベンヤミンボードレールにおける第二帝政期のパリ」、『ベンヤミン・コレクション』第4巻、浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2007年、212-213ページ。)

誰もがいくらか共謀家めいたところをもっているテロルの時代には、また誰もが探偵を演じる立場になるであろう。そのことへの期待を最もよく膨らませるのは遊歩である。ボードレールは言う。「観察者とは、いたるところでお忍び〔匿名性〕[ルビ:インコグニト]を楽しむ王侯である」〔「現代生活の画家」3〕。かくして遊歩者が、思いもかけず探偵になるとき、このことは彼にとって社会的にまことに好都合だった。[…]彼の無頓着[ルビ:インドレンツ]は、たんに見かけ上のものにすぎない。その裏には、犯罪者を見失うことのない観察者の注意深さが隠れている。こうして探偵は、自分の自信にかなり広大な領域が開けているのに気づく。探偵は、大都市のテンポにふさわしいような種々の反応形式を育てあげる。彼は事物をさっと捉える。それによって、自分は[対象を素早くスケッチする]芸術家に近い存在だと夢想することができるのだ。[…]どんな痕跡を追求しても、必ず遊歩者はある犯罪へと導かれるだろう。このことが暗示しているように、探偵物語もまた、その冷静な計算にもかかわらず、パリの生活の幻像[ルビ:ファンタスマゴリー]の形成に大いに与っているのだ。
(上掲書、220-221ページ。)