思考の屑篭

 言語を用いた時間芸術であるテクスト作品を「忠実に」映画化しようとするとき、どのような方法がありうるだろうか。
 例えばロベール・ブレッソンは、「語る声」と同時に、テクストの「書かれた文字」としての側面を重視した。この特徴がとりわけ顕著に現れた作例が、ジョルジュ・ベルナノスによる同名小説を原作とした『田舎司祭の日記』(一九五一年)だろう。この作品では、語り手/主人公の青年司祭によって書かれた日記という形式によって物語が展開する。映画ではこの日記の文面が、過剰なほどのナレーションとして映像に重ね合わされる。音声としての言語だけではない。ノートに書かれた日記の文面そのものが写し出される場面も数度ある。文字を書き綴るペンの運動と、紙面に書き付けられ、次第に言語としての意味を生成させてゆくテクストとがクロースアップで写し出され、そこに文面を読み上げる(語り手の独白としての)ナレーションが重なり合う。読む声は書く手よりも速いので、ナレーションはまず既に書かれている文字を、次に今まさに書かれつつある文字を読み、さらには「書く手」を追い越して、未だ書かれていない(これから書かれるであろう)文字を読み上げてゆく。基本的にはリアリズムに基づく演技とナレーションとの共振によって構成されたこの映画にあって、この「書かれつつある日記」のシーンは、物語の時間が緩慢になり、引き延ばされているような印象を観る者に与える。
 まずは冒頭から、タイトルバックにノート(上部には手書き文字で「JOURNAL(日記)」とある)とペン、蓋の開いたインク瓶の置かれた机上が写し出される。オープニング・ロールのスーパーインポーズが消えると、左から現れた手がこのノートの表紙をめくり、挟まれた吸い取り紙を取りのけ、そして最初の日記の文面が現れる。ナレーションがその一人称単数現在形の文章を読み上げる(je ne crois rien faire de mal, en notant ici, au jour le jour, avec une franchise absolue, les très humbles, les insignifiants secrets, d’une vie d’ailleurs sans mystère.)。この場面では、複数の時制が重ね合わされている。テクストはその生成時における「現在」として書かれているが、それが日記帳の最初の一ページとして観者の前に提示されるときには、既に「過去に書かれたもの」と化している。ページをめくる手は誰のものともつかず、これから当日の日記をつけようとしている青年司祭の手かもしれないし、彼の死後にこのノートを見つけた別の誰かのものかもしれない。後者だとすれば、この部分は、これから映画内で展開する物語を、それが過去と化した時点から、現在形の語りとして提示するという複雑な形式となっている。
 後半に向かうにつれ、つまり青年司祭の体調が悪化し死が近づくにつれ、「書かれつつある日記」には黒く塗りつぶされた書き損じが増え、やがて鉛筆による震えた殴り書きとなり、最後には彼の死を知らせるべく同僚司祭がしたためた手紙の、タイプライターの活字が並ぶ無機質な文面となる(このシーンでは、文面を読み上げるナレーションも、手紙を書いた同僚司祭デュフルティの声となっている)。
 物語が後半に向かうにつれ、つまり青年司祭の体調が悪化し死が近づくにつれ、「書かれつつある日記」には黒く塗りつぶされた書き損じが増え、やがて鉛筆による震えた殴り書きとなり、最後には彼の死を知らせるべく同僚司祭がしたためた手紙の、タイプライターの活字が並ぶ無機質な文面となる(このシーンでは、文面を読み上げるナレーションも、手紙を書いた同僚司祭デュフルティの声となっている)。