メモ:カタストロフィーの表象の(遠くから、安全な場所から眺められるという「距離」の確保)「崇高の美学」への回収

「ビキニ島の原子爆弾爆発の写真を見ていて、ギリシャ神話以来、どんな想像力も達しなかった水量が、空に舞っているのを見たと思わずにはいられない。「目に見えているものが、いっとう神秘である」という言葉は、機械時代には二重の意味をもって、私たちに真実なのである。」
中井正一「美学入門」(1951年)、久野収編『中井正一全集』第3巻(新装版)、美術出版社、一九八一年、一三一ページ。

谷川渥は、中井の言及する「原子爆弾爆発の写真」が映像であること(あらゆる事象が見せものとなる)、またカントによる「数学的崇高」と「力学的崇高」の概念に関係しうることを説いた上で、次のように述べている。
「いずれにせよ、テクノロジーの発達が可能にした「崇高」な光景――それは神話的想像力だけがかろうじて拮抗しうるような、そして映像化されているかぎり「二重の意味」において「安全な場所」(カント)から眺められた光景にほかならぬが――に、私たちの想像力が追いつかない、あるいはあとからついていくといった事態が生じているのである。知覚が想像力を凌駕し始めているという事態こそ、現代というものを指し示すひとつのメルクマールだといったらいいだろうか。」谷川はさらに九.一一のテレビ映像を、「動態としての廃墟画」と捉え、「私たちは、あの日、テレビ映像を通して、確かに「崇高」体験をもったのだ」と言う。
谷川渥『廃墟の美学』集英社新書、二〇〇三年、一七一ページ。