ポール・ヴァレリー「美術館の問題」(1923年初出) より
美術館はあまり好きではない。見事なものはたくさんあるが、居心地のよい美術館というものはまったくない。分類、保存、公益といった理念は正しいし明快だが、愉楽とはあまり関係がない。美術品のほうに向かって私が最初の一歩を踏み出すと、手が伸びて私のステッキを取り上げ、注意書きが私にタバコを吸うことを禁じる。

[…]絵画の展示室に入っていく。眼前で沈黙のうちに展開されるのは、組織化された無秩序という奇妙な光景である。[…]しばらくすると、この蝋引きされた寂しい場所――それは寺院や社交室、墓地や学校に似ていた――にいったい私は何をしに来たのか、もうわからなくなる。

見事な作品の数々がこうして一箇所に寄せ集められているというのは、まったくもってひとつの逆説である。[…]耳は、同時に十のオーケストラを聴くことはできないだろう。精神は、複数の別々の操作を追うことはできないし、実行することもできない。それに、同時的な推論というものは存在しない。ところが、眼球は、そのぐるぐる動く視角の開口部において、その知覚の瞬間において、ひとつの肖像画とひとつの海洋画、ひとつの料理画とひとつの勝利画、じつにさまざまな状態と次元に置かれた複数の人物を否応なしに認めざるを得ない。そればかりか、眼は、互いに相容れないさまざまな調和やさまざまな描き方を、ただひとつの眼差しの中で受容しなければならないのである。

芸術についていえば、博識は一種の敗北である。[…]博識は感覚の代わりに仮説を、現前する驚異の代わりに驚嘆すべき記憶力を開陳する。そして、広大な美術館に、無尽蔵の図書館を付属させる。美神ヴィーナスは資料へと変えられてしまうのである。
ポール・ヴァレリーヴァレリー集成?〈芸術〉の肖像』今井勉・中村俊直編訳、筑摩書房、2012年、317-322ページ。)