写真と文学: 何がイメージの価値を決めるのか

写真と文学: 何がイメージの価値を決めるのか

紀伊國屋書店の新刊平積みコーナーで目に止まり購入。
目次は以下の通り。

1. 文学の辺境――写真小説小史
幽霊を知らぬ頃――シャンフルーリ、バルザック
時のゆがみ――ローデンバック、ブルトンゼーバルトの写真小説
プルーストと写真ー記憶、知覚、人間関係の比喩として
エルヴェ・ギベールと写真
写真への抵抗――フランス現代小説と写真
写真の現場から 写文字の話
2. シュルレアリスムによる写真の変容
退屈だからこそ感動的な写真と出会うために――ブルトン、バルト、「ヴァナキュラー写真」
革命家たちの凡庸なスナップ写真――シュルレアリスム、写真、オートマティスム
ピエール・モリニエ――シャーマンと自己中心主義
クロード・カーアンのセルフポートレート――小さい写真
写真の現場から ダイヤモンド・ヘッドと水田
3. 写真論からイメージ論へ
透明で不透明な像――ロダンバルザック記念像”をめぐって
すでになくなっているそれを見送ること――ピエール・マッコルランと写真
アンリ・カルティエ=ブレッソンアメリカ、一九四七年
サルトルのイマージュ論――不在の写真をめぐって
『喪の日記』から『明るい部屋』へ――《温室の写真》をめぐるフィクション)
跋 写真の何が変わったのか

まずは編者による「時の歪み:ローデンバック、ブルトンゼーバルトの〈写真小説〉」に目を通す。まさしく「都市が決定的な登場人物である書物と、そこに挿入された写真の機能」に興味をもち、実際に講義でも何度かブルトンの『ナジャ』やゼーバルトの『アウステルリッツ』に言及してきた私にとっては、熱烈に面白い論考だった。
塚本氏は、『ナジャ』に様々な人物の写真が挿入される中、ナジャの肖像は(目元のモンタージュと彼女自身による数枚のデッサンを除き)不在であることを指摘しているが、これは小説中にパリの固有名詞が鏤められる中、ナジャとの邂逅のみが名も無き場で生起することと、対応しているのではないだろうか。