時間の前で―美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)

時間の前で―美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)

悪意-イメージが弁証法的イメージだとしても、可視的なものの解体は、視覚的に作業し直され、再構成されない限り意味をもたない。モンタージュ、すなわち、獲得された視覚的素材のモンタージュにおいてのみ意味をもつのである。ベンヤミンの注釈者たちは、ベンヤミンがうかつにも写真的手法(たとえば拡大)と映画的手法(たとえばコマ落としやスローモーション)を混同したとして、自分たちはそれを見破ったと思っているが、彼らは、ベンヤミンの目に関心あるものとして映った手法があらゆる技術的、美学的、知的領域(写真、映画、絵画、建築、哲学)を横断していることを理解していない。何よりもまず、ベンヤミンは、これらの手法の脱領域的機能について熟考していた。したがって、彼は、何ら臆することなく、写真の「ズームアップ」と映画の「スローモーション」の比較に賭けていたのである。映画の「スローモーション」は、ドイツ語ではまさに「時間のルーペ」(Zeitlupe)と呼ばれる。それは時間を視覚的に拡大する機械のようなものなのである。
思うに、ブロースフェルトの場合、なおいっそう適切にこの「混同」を正当化できる。この混同は、われわれが手に取る書物の具体的な使用価値から演繹される。つまり、これは無言の書物、イメージの書物なのである。そこでは、次から次へと120回花が現れる。本を手に取る人が自然にすることは何だろうか。頁をめくることである。そのとき何が起こるのか。イメージはぎくしゃくしたものになる。イメージ同士の差異が活気づく。イメージ同士の類似や対照が、決して連続的ではない、ある運動に従って、一種のあえぐような変容を描いていくことだろう。一つ一つのイメージが、植物形態を扱った実験映画における分離可能なフォトグラムのごときものになる。われわれはその映画を手で回しながらヴューアで見ているようなものだ。かくしてわれわれは、頁をめくることは事象の視覚的再モンタージュに取り組むことだということを発見する
(上掲書、140-141ページ。太字はママ、赤字は引用者による。)