想起のかたち―記憶アートの歴史意識

想起のかたち―記憶アートの歴史意識

本書で扱われている「場所と記憶」や「痕跡と過去の想起」は、以前から関心を寄せていたテーマ。特に目下ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(http://www.amazon.co.jp/dp/4582702627)を購読するゼミを行っていることもあり、書店で見かけて早速購入した。

本書で扱われているのは、「資料(source)」たるイメージではなく、想起のためのトークンないしリリーサーとして新たに制作されるアート作品やモニュメント作品(1980-90年代の主にドイツの現代アート)であり、その点でGDHが取り上げる「アウシュヴィッツからもぎとられた4枚の写真」とは、次元を異にする。しかし、「ホロコーストの記憶の想起、あるいは想像」という問題を考える際に、多大なヒントを与えてくれる書であることは、間違いないだろう。以下は、ゼミで扱われている問題との関連で目に留まった部分のメモ。

GDHが用いる「想像」と、ホロコーストの記憶に対して一般的に使われる傾向にある「想起」という概念との異同は? 個人として経験していない出来事を「想起」することは可能なのか? それはいったいどのような営為なのか?
→著者が序章で言うには、ホロコーストを経験していない世代がその「記憶」にいかに言及するか、いかに現代の自分たちと結びつけるか、という意味での「想起の作業」が問題となっている。いかに(資料等を通して知る)過去と向き合い、自らの態度を決定し、現在との関連の中で把握するか、という(創造的な)知的作業を指している、と換言できるだろうか。

ここで問題となるのは、経験者がどのように実体験を記録するか、そして出来事をリアルに再現描写するかという意味での記憶の作業ではない。そうではなく、体験者の第二世代すなわち第二次大戦中から終戦直後の時期に生を受けたいわゆる「後から生まれた世代[ルビ:ナッハゲボーレネ]」が、歴史化と忘却に晒されたトラウマ的記憶についていかに言及するか、それをどのように現代ドイツの人々と結びつけるか、という想起の作業である。とはいえ、過去の再構成についてのあるべき表象を導き出し、定式化することが目的ではない。