裸性 (イタリア現代思想)

裸性 (イタリア現代思想)

創造と救済
同時代人とは何か?
K
亡霊にかこまれて生きることの意義と不便さ
しないでいられることについて
ペルソナなきアイデンティティ
裸性
天の栄光に浴した肉体
牛のごとき空腹――安息日、祭日、無為をめぐる考察
世界の歴史の最終章

目次構成は以上の通り。
ちょうどファッションをテーマにした論考が暗礁に乗り上げていたこともあり、「裸性」と題された章を拾い読みする。
「裸」を例えば「nude」と「naked」に峻別し、前者を文化的に構築された、あるいは様々な文化的コードをまとった「ゼロ地点ではない裸」と見なす態度は、既に定番のものとなっている。アガンベンが「裸性」で問題にするのは、キリスト教神学を背景とした「裸体/着衣」の二項対立である。そこでは「衣服」は「神の恩寵」として語られる。(「恩寵は衣服のごときものである」(105ページ)、そして「裸」とは堕落の可能性に晒された「人間の本性」であり、「完全な裸はおそらく、地獄でのみ、地獄に堕ちた肉体にのみ現れ」る(99ページ)。)
導入には、ベルリン新国立美術館で行われたヴァネッサ・ビークロフト主導の、百人の裸の女性たちによるパフォーマンス(アガンベンは「純然たる裸体」はここでは生起していない、とする)が挙げられ、さらにパゾリーニ監督の映画『ソドムの市』、アダムとエヴァをテーマにする主に中世の美術、日本のSM系アダルトビデオ(?)のスチールとパッケージとおぼしき写真、クレメント・スジーニ制作の蝋製解剖学模型「メディチのヴィーナス」、ヘルムート・ニュートン『ビッグ・ヌード』所収の二連写真に言及がなされる。アガンベン流神学理解による一種の芸術論としても読むことのできる章である。

裸をめぐる問題とは、したがって、恩寵との関係における人間本性についての問題なのである。
(102ページ)

わたしたちの文化[アガンベンの属するキリスト教(ローマン・カトリック)文化圏]において、本性と恩寵、裸と衣服とを密接に結びつけている神学的な連関によって、ひとつの帰結がもたらされる。それは、裸とは状態ではなく、出来事なので、ということである。衣服を付加すべき曖昧な前提、あるいは、衣服の除去による突然の結果であるという意味で、またあるいは、予期せざる恵み、はたまた後先を考えぬ喪失であるという点で、裸は時間と歴史に属し、存在と形式には属さない。つまり、裸にかんしてわたしたちが経験できることはつねに、裸にすることであり、裸にされることであり、それはけっして持続的な形式や所有ではないのである。いずれにせよ、それを把握することは困難であり、それをとめおくことは不可能である。
(109ページ)

したがって、新国立美術館においても、それに先立つほかのパフォーマンスにおいても、女性たちが完全な裸になることはけっしてなく、つねに衣服の名残を身につけていたということは、驚くには当たらない[…]。このストリップショーが提示しているもの、それは裸の不可能性であり、その意味で、わたしたちと裸との関係性の範例である。その完成形にはけっして到達しない出来事、その発生を総体的に捉えることが許されていない形式、それこそが裸であり、裸には文字どおりの意味で終わりがなく、その到来はけっして完遂されない。その本性が本質的に欠陥をはらんだものであり、まさしく恩寵を欠いた出来事であるがゆえに、裸はけっして、裸を見つめる眼差しを満足させることができない。その視線は、衣服の極小の切端まで取り除かれ、隠されるべきあらゆる部位が厚かましくもひけらかされたときでさえ、貪るように裸を求め続けるのである。
(109-110ページ)

「裸体」について考えるための基礎文献

ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)

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ヴィーナスを開く―裸体、夢、残酷

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裸体の森へ―感情のイコノグラフィー (ちくま文庫)

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モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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