盗まれた手紙 (バベルの図書館 11)

盗まれた手紙 (バベルの図書館 11)

レミ・ド・グールモンは「ユイスマンスはひとつの眼である」と評したが、ポーもまた「触覚的視覚」の作家であるだろう。「室内の哲学」の著者でもあるこの作家は、「盗まれた手紙」では室内調度の描写に、執拗なまでの緻密さを見せている。まるで室内の見取り図を描くかのようである(上掲書26-30、48-49ページ)。
この短篇ではまた、犯人の行動を「予測」する際に、奇妙な観相学が用いられている。

「そうなんだ」とデュパンが言う。「それで、ぼくはその男の子に訊ねてみたんだよ。彼の成功のもととなった完全に相手の知性に合わせるということをどうやって果たしたのかね、とね。するとこんな返事が返ってきた。『誰かが、どれほど賢いか、どれほど馬鹿か、また、どれほど善人か、どれほど悪人か、あるいはいま何を考えているかを知りたいときには、ぼくは自分の顔の表情をできるだけ正確に相手の表情に合わせるようにするのです。それから表情にぴったりかそれにふさわしい考えや感情がぼくの心のなかに浮かぶまでしばらく待っているのです』この小学生の返答ときたら、ラ・ロシュフーコー、マキャヴェルリ、カンパネルラのものだとされている、あのにせの深遠さの底にあるものと同じなんだな」
(上掲書37ページ)

表情から相手の内面を推測するのではなく、それを模倣することで、相手と同じ思考や感情を自らの内に惹起せしめることができるという、転倒した方策である。
この「観相学」への執着は、「群集の人」では主旋律となっている。

その光の異様な効果に魅せられて、わたしはいつの間にか通行人一人一人の顔を吟味しはじめていた。窓の前の光の世界はすうっと飛ぶように過ぎてゆくので、一人一人の顔にはほんの一瞥しか与えられないが、そのときのわたしの特別な精神状態では、そのあっという間の一瞥だけで、しばしばその人間の長い過去を読み取ることがやはりできるような気がしたのである。窓ガラスに額を押し当てたまま、こうして夢中で群集を観察していたとき、不意に一つの顔が眼に映った[…]その顔の表情がおよそ風変わりなために、わたしの注意はたちまちすっかりそれに惹きつけられてしまった。そんな表情にたとえかすかでも似ているようなものは、いまだかつてこの眼で見たことがなかったからだ。[…]すると次に、あの男を尾行してみたい――あの男についてもっとよく知りたいという切実な願いが湧いて来た。[…]「この老人は」と、やがてわたしは言った。「深刻な罪悪の典型であり、その真髄なのだ。彼は一人でいることを拒むのだ。彼は群集の人なのだ。これ以上あとを尾けても無駄だろう。彼について、また彼の行為についてもう何も知ることができないのだから。この世で最悪の心とは、『心の園』よりももっと醜悪な書物であって、〈それは読まれることを許されぬ〉というのは、おそらく神の大いなる憐れみの一つなのかもしれないのだ」
(上掲書109-118ページ)