蜂の巣状に連なる幾つもの夢のなかで、歪められた記憶の断片を拾った。


冷たい雨の降る日、神保町と銀座を散策。
古本屋街でポー『盗まれた手紙』(国書刊行会から出ている変型版で、装幀が美しい)、澁澤龍彦『黒魔術の手帳』、ユイスマンス『腐爛の華』、それから「世界の名著シリーズ」の『ブルクハルト:イタリア・ルネサンスの文化』を購入。
銀座では、三つのギャラリーを巡る。

書物というのは、情報伝達のためのメディアであり、テクストの運搬体であるが、それ以上に(ときにフェティッシュな)オブジェなのだということを再確認する。蔵書票というには随分と大きいが、挿図入りの大型本を想定して作られたのだろうか。「知性」を象徴するようなアトリビュートではなく、もっぱら物憂げな表情の半裸の女性が描かれている。古典建築、溢れる花々、それから南国由来の風雅な鳥たち。
ギャラリーには、最近存在を知って気になっていた雑誌『TH』の最新号が置かれていたので、パラパラと捲ってみる。

障子戸と白壁によるインスタレーション。障子は、それを透かして差し込む柔和な光の美しいメディウムである。堅牢な物質でできた壁のように、内外の交通を遮断してしまうわけでもないし、完全な開口部でもない。

風化し解体していく身体と、浮遊しつつも降下してゆく運動性。宙吊りにされた少女たちの身体によって表現されているのは、有機性ゆえにおぞましい腐敗ではなくて、白一色で表現された、どこか乾いた感じの「風化」であり、静謐な死のイメージである。溶解し剥がれ落ちていく皮膚は繊細に絡まり合って、ある種の植物を思わせる。


アレキサンダー・マックイーンが亡くなった。自死だという報道もある。「前衛」や「挑発」をテーマにした物づくりを続けていくことに疲弊したのか、それとも「作品」としての評価とは裏腹に、「商品」としての売れ行きが芳しくなかったのか。(彼と同年代でセント・マーチンズ同窓のフセイン・チャラヤンなども、クリエーターとしては高い評価を得る一方で、一度会社を経営破綻させている。)彼がいったいどんな心理で、未知の場所へと自ら赴くことを決意したのか、そのことを考えると、腹に巨大な空洞ができたような心持ちになる。